現象を救う者は科学か文学か?

 ドイツの若き哲学者、マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」を読んでいます。今年の1月に邦訳が出版され、発売当時は話題を呼んだ本書でしたが、僕はどうも流行りものを避ける傾向にあり、読んでみたいなぁ、とは思いつつもなかなか手が出せないでしました。

 カンタン・メイヤスーの「有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論」が千葉雅也さんたちによって訳されて以来、なんとなく”新しい実在論”が人文系のトレンドな気がしています。

 僕自身は科学的実在論の文脈において、構築主義的な考え方に親和性を覚えるので、実在論に対してはやや慎重な態度をとる傾向にあります。ところが、「なぜ世界は存在しないのか」で紹介されているガブリエルの考え方は、どうも僕が思い描いている実在論とは少し異質なもののようです。実は、まだ読み途中で、その解釈には誤りがあるかもしれませんし、自分の考えも定まってはいないのですが、目に留まった文章を少しだけ引用してみます。

『世界像、およそ現実の全体、あるいはリアリティそれ自体に取り組むとなると、わたしたちはたいてい、自らの日常的な経験から大きく離れてしまいます。こうしてわたしたちがあまりにも易々と見過ごしてしまうものを、ハイデガーは「飛び越え」と呼んでいました』 (なぜ世界は存在しないのかp136)
『わたしたちの日常言語は不十分なもので、わたしたちの体験することを本当にとらえることはできません。それだけに、ライナー・マリア・リルケのような詩人たちのほうが優れた現象学者ー現象を救うものーであると、はっきり示されることがあります』 (なぜ世界は存在しないのか p140)

 「現象を救う」という言葉。この言葉を用いた哲学者として、僕が名を知っているのは、フラーセンただ一人です。バスティアーン・コルネリス・ファン・フラーセン(Bastiaan Cornelis van Fraassen)は米国の科学哲学者で、1980年の著書『科学的世界像』(邦訳は1986年) において、科学的反実在論の立場から構成主義的経験論 (constructive empiricism) を提唱しました。

 科学的実在論とは、科学において措定される観察不可能な事物が、僕たちの認識とは独立して存在するという考え方のことです。それは、しばしば「成熟した科学で受け入れられている科学理論は近似的に真(approximately true)である」という形で定式化されます(伊勢田哲 Nagoya Journal of Philosophy vol. 4、2005年、35-50)。端的に言えば、理論対象が現実に存在するという立場を科学的実在論と呼ぶわけです。

 もちろんフラーセンは反実在論者ですから、理論対象が認識とは独立に実在するとは主張しません。そうではなくて科学理論は現象を救うための道具にすぎず、理論対象の実在にコミットする必要はないと言うわけです。

『一つの科学理論の承認に含まれる信念は、その理論が、「現象を救う」ということ、つまり観察可能なものを正しく記述する、ということだけである。(B.C.ファン・フラーセン1986 p26)』
『物理理論はたしかに、観察可能なものよりもずっと多くのものを記述する。しかし重要なのは経験的十全性であって、観察可能な現象を越えたところでの理論の真偽ではない。(B.C.ファン・フラーセン1986 p125)』

 ガブリエルの主張では、そもそも科学的世界像という世界の把握の仕方が誤りだと言います。科学理論だけが現象を救うわけじゃない。ライナー・マリア・リルケのような詩人たちのほうが、現象を救うものとしてより優れているのではないかと……。 

 歴史全体に意味を吹き込もうとする試み、そういう観点からすれば、科学も文学も同じようなところを目指してきたように思います。科学的知識の解釈も歴史的事実の解釈も、発見ではなくある種の発明に近いものなのかもしれません。観察とは生まの事実をあるがままに受動的に写しとるのではなく、逆に理論的枠組に則って事実を解釈的に〈構成〉する能動的な行為なのですから(構成という言い方をガブリエルは否定するでしょうが……)。 

 例えば絵の具や文字は何らかの秩序を形づくり、そこにやはり何らかの意味の場を付与しています。それは(科学的な)事実性というある種の認識論的特権性から、僕らを自由にするものなのかも知れません。

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