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物語の共有可能性

 辞書を手に取り、言葉の意味を調べてみる。ぱらぱらとページをめくると沢山の言葉が並んでいるけれど、一つの言葉には、多くの場合で複数の意味が記載されている。言葉には潜在的に意味の多様性が含まれている。

 「空は青い」と言うような単純な表現でさえ、そこには様々な解釈可能性が存在している。『今日は天気が良い……』 とか 『雲一つない空……』 とか 『空気が澄んでいる……』 とか、そんな風に。言葉には多様な意味が含まれているからこそ、文章にも多義性が宿っていく。

 意味や価値の文脈依存性を踏まえれば、言葉や文章の意味や価値も、読み手の経験や環境にとって、人それぞれと言う仕方で解釈される。だから、絶対的に正しい文章の解釈みたいなものが存在するわけじゃない。

 こうした意味や価値認識の相対性は、他者の理解不可能性を生み出す原因にもなる。僕らは、決して他者の思考そのものに触れることはできないし、言葉による伝達を試みたところで、自分の考えている意味や価値が、他者にそのまま伝わる可能性は極めて低い。 例えば「あれを取って」と言われた時の「あれ」とは何かを考えてみる。あらめて考えるまでもなく「あれ」には様々な解釈可能性が宿っている。

 ただ、実際には一定のレベルで共通了解は成立しうる。「あれ」をとってと言われて、その「あれ」が「あ、ボールペンね」とすぐに理解することができたりするのがむしろ日常と呼ばれるものだ。

 コミュニケーション能力とは、テクスト発信者の意をそのまま汲み取る能力と言うよりは、同じ物語(文脈=コンテクスト)を共有することができる能力に近い。

『「語」は多様な「意味」を"もつ"のではない。そうではなく、われわれはある「語」から、いつでもこの語に結び付く概念的諸連関を"展開"することができる、ということなのである』(竹田青嗣.言語的思考へ- 脱構築と現象学p213)

 言葉だけでは他者を理解することが難しい。大事なのは他者の文脈を想えること。他者を自分の文脈に受け入れていくこと。

 他者と分かり合うということは、物語を共有すること、あるいは同じ物語を歩けることなんだと思う。原理的に思考は言葉に表出できない。だから厳密な意味で人は相互理解不可能である。だけれども、他者の想いを共有する、その可能性が否定されたわけじゃない。

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