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第37回 清和天皇元服

貞観6(864)年正月元旦。その日、京は大雪だったと言います。
その日、15歳になった清和天皇の元服の式が紫宸殿で行われました。病身でしたが成人した事を、外祖父の太政大臣良房も生母の明子も喜びました。
ここで本来、添い臥しとして高子(23歳)が入る予定でしたが、見送られました。
やはり4年前の業平との出奔で、「あの人はいかがかと」という声があったのでしょう。良房の妹である皇太后順子は、弟の右大臣良相の味方でした。
そして正月16日、伴善男が大納言に昇進しました。

善男は、祖父継人が、藤原種継殺害事件で死罪となり、父国道は連座で佐渡に流されました。善男は佐渡で生まれたとも京で生まれたとも言われますが、許されて京に戻って来てから才覚と努力で昇進を重ねてきました。
そして上に取り入る事もうまく、良房にずっと取り入っていたのですが、機を見るに敏な善男はこの頃、良相にも取り入っていました。
良房としては面白くない事態です。

そして正月27日、結局良相の娘多美子(生年不明だが20歳前後?)が入内する事になりました。
ここで多美子に皇子でも誕生すれば、やがて良相政権に取って代わります。

一方、秀才の誉れ高い20歳の菅原道真は、各願文を依頼されて見事な文章を提供していました。

冬には、嵯峨源氏である左大臣信(まこと)や中納言融の謀反の噂も出てきて騒然としてきました。
嵯峨天皇は三筆にも入るほどの能書家で聡明でもありましたが、同時に艶福家でもあって、40人以上の后妃にまた50人以上の皇子女を儲けていました。ずっと皇室で面倒をみるのは経済的に大変なのでそれぞれに源姓を与えて臣籍に下していました。しかしそこから能力のある男子は高官に昇進し、それを嵯峨天皇は意図していたのかどうかは分かりませんが、藤原氏の大きな敵となっていました。後年、源高明(光源氏のモデル)の無実の左遷も藤原氏の陰謀でした。

この年、藤原保則の妻となった、業平の娘美子は、男児を儲けました。40歳の業平もおじいちゃんになった訳です。(続く)

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