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第46回 後白河法皇(11)木曾義仲(後篇)

義仲の法住持殿への襲撃はすさまじく、法皇や後鳥羽天皇の命は取らなかったものの、法皇の第4皇子の円恵法親王や天台座主・明雲は戦死。そして百余名の首が翌日五条河原で晒されたとあります。

後白河法皇は怯えていました。もう何度も幽閉の憂き目に合っています。最初は平治の乱の時に藤原信頼から。これはたいしたものではなかったですが。それから平清盛を怒らせて鳥羽殿。福原京の御所も軟禁状態でした。そして今回です。法皇はひょっとしたら、義仲に北陸まで連行されるのではないかと案じていました。平家の西国行きは辛うじて免れたのに。

しかし鎌倉からすでに、範頼・義経が6万の軍を率いて京を目指していました。義仲の軍はすっかり人望をなくして兵が逃亡し、千人ほどだったといいます。
何とか年を明け、寿永3(1184)年1月6日、鎌倉軍が近づいているという情報を受けて、15日征東大将軍に任じさせ、迎え撃ちます。宇治川の橋を壊して敵が渡れないようにしたのですが、川の浅い所から有名な先陣争いもありました。
多勢に無勢。最後は5騎になって粟津で亡くなったといいます。31歳。しかし『平家物語』では義仲四天王との厚い友情や、巴御前との別れが描かれています。後白河法皇はまたもピンチを脱しほっとした事でしょう。法皇の次の犠牲者は義経です。

鎌倉にいた人質の12歳の義高は逃げようとして殺されます。7歳の大姫が嘆くので、義高を殺害した武士が殺されます。二次殺害ですね。

義仲には他に庶子がいて生き延びたという説もあります。巴も義仲から強制的に離脱させられた後、和田義盛の妻となり、また和田合戦の後、長く生きたという言い伝えもあります。

四天王の一人、樋口兼光の子孫に米沢藩の名家老・直江兼続がいるというので驚きました。

江戸時代に下って松尾芭蕉が義仲を敬愛しており、大坂で亡くなった後、遺言なのか遺体を淀川を上って大津の義仲寺に埋葬して貰いました。私も義仲寺を訪れた際、何で芭蕉の墓も並んでいるのかと不思議に思いました。

今回、このnoteのお陰で調べ直す事ができ、そんなに義仲を重要視してなかったのですが、何だかファンになってきました!(笑)有難うございます!!

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