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第89回 譲位の駆け引き

道長と三条天皇の不幸な関係はずっと続いていました。即位から4年近くたった長和4(1015)年3月、三条天皇(40歳)は眼病に襲われます。天皇の方が若く、道長は50歳を迎えていました。
道長は天皇に譲位を勧めます。もちろん外孫の東宮敦成親王が8歳で早く即位させたいからです。
天皇は「譲位してもいいが新東宮には敦明を立ててほしい」と言います。
敦明親王は天皇の第一皇子で22歳。しかし生母は藤原済時の娘で道長とは全く外戚関係がありません。
道長は彰子の2番目の皇子敦良親王(7歳)を推薦します。

両者はもちろん全く引かず平行線を辿ります。道長は、
「敦明親王は東宮の器ではない!」と言い放ち、また三条天皇は怒ります。
確かに敦明親王は家来の躾が全くなってなくトラブル続きだし、いろいろな行動を見て、? と思う方でした。後に白河法皇も、
「小一条院(敦明親王)は阿呆な方であったが、強い武士を傍らにつけていたので無事であった」と言っています。

そして三条天皇が即位した1011年から4年ほどの間に2回も内裏が焼亡しているのです。この頃、大火事とか地震はその時の「天皇の徳」がないと言われました。大変ですね。
1014年2月9日に内裏が焼亡し、翌1015年9月20日に新造内裏が完成したものの、何と2か月後の11月17日、また焼亡しているのです。これは何者かが三条天皇を追いこもうとして放火した可能性もあります。

1015年12月、悲しい天皇は、黒髪が美しい禎子内親王(3歳)を横に置いて『百人一首』にも載っている有名な歌を詠みます。
「心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな」
見えない目で月を追いながら、悲しみの歌を詠う天皇でした。

ところが突然、年末になって道長は天皇の考えを受け入れ、敦明親王の皇太子を承認します。天皇は涙を出して喜びましたが、周囲の人は、
「何か考えがあるな」と道長の事を見ていました。(続く)

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