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第131回 白河天皇の企み

最愛の中宮賢子を亡くした白河天皇は悲嘆に暮れていましたが、やがて賢子の忘れ形見の善仁親王を皇位につけようと考えます。善仁親王は虚弱で(結局29歳で崩御)白河天皇としては心配でした。
東宮には異母弟実仁親王がおり、亡き父後三条上皇からは「実仁の次はその弟輔仁(すけひと)を立てるように」との遺命がありました。

しかしここに千載一遇の機会が訪れます。
賢子が亡くなった翌年、応徳2(1085)年11月8日、東宮実仁親王が疱瘡で15歳で亡くなったのです。
本来なら輔仁親王(13歳)を新東宮に立てなければなりません。群臣たちの助言も白河天皇は聞き流していました。

そして翌年11月26日、実仁親王の一周忌が終わってまもなく、白河天皇は突如として善仁親王(8歳)を東宮に立て、その日の内に譲位してしまったのです。堀河天皇の誕生ですが、まさに「電光石火」の如き早業。周囲は呆気に取られました。念入りに近臣たちと相談の行動でしょう。

そして自らは幼帝の補佐をするという事で後見をしました。いわゆる「院政」の始まりです。しかしこの案は実は、先帝後三条天皇が譲位してやろうとしていた事でした。譲位してすぐに崩御されたので実行はされませんでしたが。ヒントは白河天皇に与えられていたのでした。

しかし院政はやがて天皇周囲の臣下との対立を呼び、やがては保元の乱、平治の乱の遠因となって、武士の時代がやってきます。白河上皇はその事に気づいておらず、ひたすら虚弱な堀河天皇に後継ぎができる事を願っていました。(続く)

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