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第102回 師輔の野望と高子の復位

承平・天慶の乱の最中、天慶2(939)年の仁王会(にんのうえ)-天下泰平・鎮護国家を祈るために仁王経を講説する会ーの時に、摂政忠平(60歳)は自ら隠形(身)の方を実演しました。つまり忍術です。忠平が前参議として道真左遷から距離を置いて暇な時に身につけたのでしょう。
人々は驚きましたが、しかしこれは図らずも、源光殺人の犯人の可能性があるという事を漏らした瞬間でもありました。

次男の師輔(32歳)もやり手で、翌年、朱雀天皇の弟・成明親王が15歳で元服すると、早速長女の安子(14歳)と飛香舎(ひぎょうしゃ:藤壺)で婚儀させました。成明親王の生母であり、皇太后穏子は叔母で、陽気な師輔の事を気に入っていました。亡き兄時平も笑い上戸で、道真はわざと家来に面白い事をさせてー例えば大きな放屁をさせるー時平が笑いすぎて止まらない間に政務を進めたという話もあります。(『大鏡』)
時平によく似ていたから師輔を可愛がっていたのでしょうか。ただ、師輔は表面の陽気さと共に腹黒さを持っていました。病弱な朱雀天皇に代えて成明親王を即位させたので。(次回に述べます)

天慶5(942)年3月24日、前皇太后の高子の三十三回忌が行われました。子の陽成上皇(75歳)、孫の元良親王(53歳)らももちろん出席しています。そこで話題になったのは高子がいまだに「廃后」という汚名を着ている事でした。聞けば、「廃后」の理由となった密通の相手の護持僧善祐は天慶の初めに80歳ほどで亡くなったという事です。
「何とか復位をできないものだろうか」高子の親族たちは泣きながら溜め息をつくのでした。
情報に長けている忠平・師輔はまた密談をします。
「父上、好機ですぞ。ここで恩を売れば陽成院様方は生涯我らに刃向いません」
「そうじゃな」
やがては公表される高子と業平の出奔、陽成上皇の伯母恬子内親王と業平の密通などの話に上皇の子孫は文句を言えないでしょう。

翌天慶6年5月27日、「前皇太后高子の本位を復す」という宣旨が出ました。陽成上皇、元良親王始め一族はまた泣いて喜びました。高子は「前皇太后」ではなく、堂々と「二条の后」と表記される様になったのです。
その2カ月後の7月26日、体調を崩していた元良親王は54歳で亡くなったのでした。(続く)

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