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第76回 道真の孤立

憎い筈だった基経亡き後の宇多天皇の立場は不安定でした。
そして逆に陽成上皇の周囲に群臣たちは集まり始めていました。
「陽成院様こそ本流」文徳ー清和―陽成と三代続いた皇統です。それに基経が意に染まぬ高子・陽成母子を放逐したというのは皆、感づいていました。
もう一度陽成院の復位を。あるいは宇多天皇ではなく、陽成院の同母弟・貞保(さだやす)親王の即位をという動きがありました。
そんな寛平3(891)年2月、二条院で高子の五十の賀が桜満開のもとで盛大に行われます。高子は依然として美しく、陽成上皇臨御の元に、主に賜姓源氏が多く集まりました。皆、同じ賜姓源氏だったのに、宇多天皇だけが登極したのを不快に思っていたのです。

10月には橘義子腹の斎中親王が7歳で早世し、宇多天皇の不安は増々募りました。
尚、この年の冬、宇多天皇の女御温子に仕える女房・伊勢(当時20歳)は基経の三男・仲平との恋に苦しみ、実家のある大和へ帰っています。美少女だった伊勢は最初こそ仲平に愛されたものの、身分違いで(元は伊勢の先祖・真夏[まなつ]の方が仲平の祖先冬嗣の兄だったけれど、平城上皇の側について失脚したのでした)仲平は別の高貴な女性に乗り換えたのでした。-結局、後年、伊勢は宇多天皇のものになりますがー

寛平5(893)年2月、宇多天皇は道真を参議に抜擢します。本格的に政界に参入させたのでした。そして元々は学者の出で、高貴な身分ではない道真にばかり相談するので、他の公卿たちが怒って示し合わせて出仕しないという事も多々ありました。

道真の献案で、取りあえず東宮(皇太子)を立てようという事になりました。本当は摂関家の女御・温子の皇子誕生を待っていたのですが、皇女を一人産んだきり、その後、懐妊はありません。
道真は更衣胤子(藤原氏の支流高藤の娘)を女御に格上げし、その所生・敦仁親王(9歳)を東宮とします。これなら一応藤原氏の血を継ぐ皇子を東宮にしたという事で収まると思ったのです。

しかしこんな重大な事を、今回も道真にだけ相談したという事が発覚し、完全に公卿たちは怒ってしまいました。
「道真を失脚させよう。できなければ国外へ追放しよう!」
その動きが秘かに巡っていったのでした。(続く)


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