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第62回 順徳天皇

順徳天皇は守成親王。1197年に後鳥羽天皇の第三皇子として生まれ、百人一首の最後の歌「ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりあるむかしなりけり」で有名です。

母は後鳥羽天皇に仕えていた重子という女性。重子の父はかつて紹介した事もある男気のある藤原範季。母は平教盛の娘教子です。
教子は長命で、守成親王に影響を与えたと思います。それは壇ノ浦で父や兄が亡くなり平家の盛衰を知っていたからです。「打倒源氏」を幼少の頃から教えていたのではないでしょうか?また『平家物語』が完成したのは後の四条天皇の頃と言いますが、順徳天皇の頃から動きがあったと思います。平家への思いは強かったでしょうから。

守成親王は聡明で気鋭。父後鳥羽上皇も多才多芸の人でしたので、おとなしい第一皇子土御門天皇の皇太弟とし、ついに守成親王14歳の時、16歳の土御門天皇を譲位させて順徳天皇とします。
政治は父に握られていたので、順徳天皇は学問や歌に励み『禁秘抄』という学者並の有職本を書いています。
22歳の時、第一皇子懐成親王が生まれます。

順徳天皇の打倒源氏の願いは募ります。ひょっとしたら父後鳥羽上皇よりもある意味で強かったかも知れません。
1219年鎌倉3代将軍源実朝が暗殺され、暗殺した公暁も殺され、実朝の従弟・阿野時元も討ち死にし源氏正嫡は滅亡します。

この鎌倉幕府の混乱を見て「打倒幕府」に切り替えます。
しかし聡明な筈の後鳥羽上皇や順徳天皇は、幕府の中心はすでに北条氏に移っていて盤石の構えであった事を見抜けなかったのでしょうか。それともやはり順徳天皇の冒頭の歌にもある様に「古き昔の」朝廷中心の日本にしたかったのでしょうか?

1221年4月20日、25歳の順徳天皇は皇位を幼い4歳の懐仁親王に譲って身軽な立場に立って父と共に倒幕を実行に移します。
5月15日に京都守護伊賀光季を討って、北条義時追討の院宣を出します。

しかし幕府軍は早くも京を目指して攻め入り、6月15日幕府軍は入京します。
幕府の処置は厳しいものでした。7月9日、懐仁親王は廃位。叔父の九条道家の邸に預けられます。天皇の名前も与えられず九条廃帝と呼ばれました。(明治天皇が仲恭天皇と諡(おくりな)されました。)そして17歳で崩御します。皇女が1人いたようですが。

7月13日に後鳥羽上皇は隠岐に配流。21日に順徳上皇は佐渡島に配流となります。
順徳上皇の外叔父高倉範茂(範季の子)も処刑されます。
これを見て、乱には加わっていなかった土御門上皇が「朕も流してほしい」という事で閏10月に土佐に流されます。(やがて少し近い阿波に遷る)

それから21年の遠島生活を順徳上皇は送ります。女性関係は比較的自由だった様で、3人の女性から3皇子1皇女が生まれています。
佐渡で生まれた忠成王は京で祖母重子の元で養われます。

そして1242年1月、四条天皇が事故で12歳で崩御。中宮の弟で親しい九条道家が忠成王を擁立しようとしますが、執権北条泰時からストップがかかり、皇位は亡き土御門上皇の皇子になります。

全てを悟って絶望した順徳上皇は、体調を崩し、9月12日絶食し、一説では焼けた石を頭に乗せて崩御されました。46歳の波乱に富んだ生涯でした。
また途中で出羽国に逃亡したという説もあります。

お気の毒な順徳上皇でしたが、その子、善統親王の孫の娘2人がそれぞれ後円融天皇(北朝)と足利義満を産んだという説があります。
義満が天下を取った事で、少しは供養になったでしょうか?


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