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第93回 わびぬれば今はた同じ難波なる

延喜23(923)年3月21日、東宮(春宮)保明(やすあきら)親王の21歳での急死は、道真怨霊を思わせました。
紀貫之が、哀傷歌「君まさで春の宮には桜花 涙の雨に濡れつつぞふる」を献上しています。
4月11日には延長と改元され、同じ4月20日に、大宰権帥(ごんのそち)に左遷された道真を元の右大臣に復し、更に正二位を追贈しました。

4月26日には我が子を喪って悲しむ弘徽殿の女御・穏子(38歳)に正子内親王以来という皇后(中宮)が贈られました。
そしてまた4月29日に新しい東宮として保明親王の遺児、慶頼王(3歳)がなりました。ひと安心です。
穏子は懐妊中でした。そして7月24日、忠平の五条第で穏子は皇子を出産しました。寛明親王(ひろあきら:後の朱雀天皇)です。高齢出産にも拘わらず母子共に健康でしたが、道真怨霊を怖れ、生まれた親王は3年間几帳から出さず邸の奥深い所で紙燭(しそく)の灯りだけで育てられる事になりました。そのせいで、寛明親王は太陽の光を浴びずに育ち、不健康なまま30歳の生涯を終える事になります。

宇多法皇も孫の死で仁和寺に籠る生活になりました。京極の御息所(その時、京極に居たかは不明ですが、後の呼称)褒子に行くのにも間遠になります。そこへ忍び込んだ勇気ある(?)男がいました。陽成上皇の皇子、元良(もとよし)親王(34歳)です。褒子は16歳ほどでしょうか?
褒子の女房たちを口説いて逢瀬を果たした元良親王でしたが、かつて宇多法皇に想い人を奪われた意趣返しでもありました。しかしこんな事はすぐに発覚します。

「よりによってこんな時に」
宇多法皇は怒りますが、相手がかつての主人である因縁の陽成上皇の皇子です。しかし褒子への警戒は厳しくなりました。
元良親王は後世に遺る歌を詠みます。『徒然草』によると元良親王の声は朗々として内裏中に響き渡ったとも言われます。大柄だった?
「わびぬれば今はた同じ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ」
難波(大阪)の「澪標(みおつくし)」と「身を尽くしー滅びても」を掛けています。人々はどうなるのだろうかと固唾を飲んでいました。(続く)

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