見出し画像

第73回 守貞親王ー後高倉院

守貞親王は1179年4月、19歳の高倉天皇を父として、23歳の坊門殖子を母として第二皇子として生まれました。
高倉天皇は数え21歳の1月に崩御されましたが、16歳から20歳の間に、徳子以下6人の后妃と4男3女の皇子女を儲けました。父後白河法皇と義父である平清盛に権力を握られているので女色にしか向かえなかったのでしょうか。后徳子もそんな夫に嫉妬せず、逆に女性を勧めていた節もあります。殖子も元々は徳子に仕えていた女房でした。守貞親王誕生の翌年、四の宮である尊成親王(後の後鳥羽天皇)を産みます。

守貞親王の乳母は治部卿の局といって、平知盛の妻です。だから最初から平家の元で育てられたとも言えます。
1183年7月、木曾義仲の進軍で、平家一門は西走します。5歳の守貞親王も異母兄で6歳の安徳天皇の東宮扱いとして同行させられます。尊成親王は京に留まりました。

2年後、平家は滅亡し、安徳天皇は入水。しかし7歳の守貞親王は乳母らと共に帰京しました。すぐに生母で七条院となっている殖子に面会し、後白河法皇にも面会しましたが、皇位はすでに同母弟の6歳の後鳥羽天皇に譲られており、守貞親王は日陰の道を歩く事になりました。

1191年、13歳の守貞親王は元服し、持明院基家の娘で19歳の陳子(のぶこ)という女性と結婚します。陳子の母は平頼盛の娘で、かつて平家一門から爪はじきにされ、鎌倉の頼朝の元に父と共に身を寄せていた事もあり、陳子も幼い頃鎌倉に居た事がありました。
親王の陳子の夫婦仲は良く、3男4女の皇子女に恵まれました。

一方、後鳥羽天皇は文武に優れていましたが、遊興にも流れ、特に毬杖(ぎっちょう:ポロ:左で打つ人を左毬杖という)に熱心の余り、僧文覚などは
「毬杖冠者。これなら皇位を聡明な守貞新王に替わった方がいい」と公言し、文覚は佐渡・対馬と2度も流され客死します。(『平家物語』は隠岐に流されたとし、この前、大河『鎌倉殿の13人』でも18年前の1203年に亡くなっている筈の文覚が後鳥羽上皇の元へ現れて『一緒に行こう!隠岐はいいぞ!』と言って頭にかぶりつくという場面がありました)

後鳥羽天皇は1198年、第一皇子の土御門天皇に譲位し、更に1210年、その弟の気鋭な順徳上皇に譲位させたのを見て、守貞親王は1212年3月、34歳で出家します。3人の皇子たちも順次出家させる予定でした。

ところが1221年5月、承久の乱が起き、7月に後鳥羽上皇などは配流。仲恭天皇も廃位となり、鎌倉幕府から守貞親王の皇子の即位を要請されます。
3人の皇子の内、2人は出家させており、末子の10歳の茂仁(ゆたひと)親王だけがまだ出家していなかったのです。それから守貞親王の異母弟三の宮惟明親王は不思議な事にその年の5月に亡くなっています。

幼い後堀河天皇(茂仁親王)の後見と言う事で、皇位についていなかったのですが守貞親王の院政が始まりました。かつて乳母だった治部卿の局も改めて呼び、四条の局として権勢を振るう事になります。

2年後の1223年5月、守貞親王は45歳で亡くなります。後高倉院という尊称が諡(おくりな)されます。

愛妻で北白河院となった陳子は、途中、我が子後堀河上皇が23歳で崩御するという悲しみを経て、1238年まで生きて、66歳で亡くなります。
しかし、その4年後、孫の四条天皇が12歳で転倒して崩御し、守貞親王の系統が断絶して、また後鳥羽天皇の系統に戻る事実を見ないで済んだのは良かった事でしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?