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第74回 治部卿の局

守貞親王繋がりで治部卿の局を。治部卿の局とは平知盛の正室で、1152年生まれ、1231年、80歳まで生きた方で、私は一時『平家物語』の作者に擬そうかなとも思いました。
父親は武藤兼頼とも藤原忠雅とも言われていますが、初め清盛の妻時子に仕えていた様ですが、その器量を認められて、16歳の時、同い年の清盛の4男知盛と結婚しています。当時は平氏全盛の時でした。

18歳で長男知章(ともあきら)を産み、次男知忠の生年が諸説あるのですが、1179年、生まれたばかりの高倉天皇の第2皇子守貞親王の乳母となって養育に励みます。
1181年には娘を産みますが、その頃から源氏の反乱がひどくなり、83年7月に平家は西走します。この時、次男の知忠は乳母夫に伴われて伊賀に逃げそこで成長します。

1184年2月、一の谷の戦いで、敵に襲われた父知盛を助けようと知章が割って入り、知盛を逃がして自分は討ち死にします。16歳でした。
知盛は父を助けようとして亡くなった息子を偲び嘆くのでした。治部卿の局も同様でしょう。

1185年3月、壇ノ浦で知盛は「見るべきほどのことは見つ」と有名な言葉を遺し、入水自殺します。
時子と安徳天皇も入水しますが、治部卿の局は6歳の守貞親王と5歳の娘を守って、助けられた徳子らと共に帰京します。

帰京した治部卿の局は、妹婿の四条家に養われ後年「四条の局」と名乗っています。また守貞親王が後白河法皇の姉、上西門院の猶子となってそちらへ移ったので、そこへ務め、一緒に琵琶を習ったという話もあります。

1196年6月、悲しい事がありました。生き別れになっていた次男の知忠が京で謀反を起こし処刑され、その首実検に来いというのです。
別れて12年。知忠は17歳とも21歳とも言われています。成長した知忠を治部卿は見て、
「中納言殿(知盛)の若い頃と似ております」と涙ながらに言ったと言われます。16歳になっていた娘も一緒に行ったでしょうか。

その娘は、平教盛の娘、教子が藤原(高倉)範季との間に産んだ4歳下の範茂と結婚し、1206年、26歳の時に長男範継を産んでいます。
ところで最近分かったのですが、この範季という人、紫式部の娘賢子が産んだ高階為家の曾孫の可能性があります。範季の兄範兼は絶対にそうなのですが。(範兼と範季は同母か異母か不詳)同時に作成しているnote『源氏物語誕生の秘密』と『平家物語誕生の秘密』が交錯するのが個人的には面白いです。

ところで、1221年承久の乱があり、範茂は処刑されます。そして守貞親王の皇子茂仁親王が後堀河天皇になり、守貞親王が院政をするに当たってまた乳母であった治部卿の局が呼ばれ、ここで四条の局となり采配を振るいます。きっと事務能力にも長けた人だったのでしょうね。夫を失った娘も中納言の局として仕えます。(亡き父知盛が中納言だったからでしょう)
息子の16歳の範継の助命がなったのも守貞親王が当時来たいた北条泰時と交渉してくれたのかも知れません。

『平家物語』が『治承物語』から改称したのは1230年頃と言われています。治部卿の局がもう79歳の時。平家の栄華を後世に遺しておきたいという平家の女人たちの執念の現れでしょうか。

ちなみに中納言の局はもう1人、娘を産んでいます。その娘は一族の四条隆親(その父隆衡の母は清盛の娘)と結婚しますが離縁し、隆親は足利氏の娘などを妻としています。


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