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第15回 璋子の入内決定、その時白河法皇は。

永久5(1117)年。17歳になった璋子はそれこそ美しさを増していました。
そして璋子は性に対して奔放というか、ガードが甘い所がありました。
ここを前述しましたが、女性作家の方々は手厳しく批判しています。
しかし数えの5歳の時から、白河法皇の愛撫にさらされ、判断力もつかなくなった璋子を気の毒に思います。
璋子に接した男たちはその美貌に悩殺されて理性を失っていきます。関白忠実の日記にも、筝の若い師匠・季通や、僧に仕える童子などが密通の相手として記されています。(真偽は不明ですが)後年、仕える佐藤義清(のりきよ)は璋子に叶わぬ恋をして、出家して西行になったとも言われます。

大体、白河法皇(65歳)自体が、璋子への恋慕に狂ってしまいそうでした。
見かねた群臣の誰かが言ったのでしょう。
「帝の后とされてはいかがですか?」孫の鳥羽天皇は15歳。年齢的に丁度いいです。そして帝の后となってしまえば、もう手を出す事もできない・・・白河法皇はその時は思った事でしょう。
璋子を諦めて法皇は混乱しました。というのは推測ですが、もう一つの禁断の恋。祇園の女御の娘に手を出してしまったのです。
祇園の女御が、夫を無実の罪で伊豆大島に流されて法皇のものにされてしまったのが、23年前でした。女御の年齢は不明ですがその時10代後半としても40歳ほどだったでしょう。そしてその時、赤子だった娘も23、4となっています。夫が流された後も女御が自殺しなかったのは、娘を守るためでした。そして「年の離れた妹」として側に置いておいたのでした。

娘を懐妊させたと分かった女御は、恐らく烈火の如く怒り、法皇を責めた事でしょう。女御に恐い者はいません。皆が恐れる法皇にも「さあ殺せ!」と言わんばかりの迫力だったでしょう。
困った法皇は、近臣の平正盛に相談したでしょうか?
正盛は言います。「我が息子、忠盛(22歳)の妻としてお迎えします」
その時、平家は源氏に代わって勢力を増していました。その御曹司の妻なら良い話です。祇園の女御もまずは安堵した事でしょう。
こうして全てを承知した忠盛の元に、清盛の母は貰われていくのでした。(続く)

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