見出し画像

第51回 頼長の失敗

保元元(1156)7月10日夕刻、白河北殿にて乱の決意をした崇徳上皇は心配でした。「兵は集まるのか?」すると頼長は自信たっぷりに答えました。
「大丈夫でございます。教長が集めてございます。それに藤原の氏寺である興福寺から多数の僧兵が明後日には駆け付けて参ります」

その頃、崇徳上皇の腹心である教長は必死に六条堀川の源為義を口説いていました。「頼長様のこれまでのご恩に報いぬ積りか」
最後は泣き落としの様に言う教長に為義は表情を暗くして了承しました。
しかし為義は嫌な予感がしていました。
「長男の義朝は早々と帝方についている。負けたら我らの命はあるのだろうか。嫌、普段不仲でも義朝が命乞いをしてくれよう」
そして四男の頼賢、五男の頼仲、六男の為宗、七男の為成、勇猛な八男為朝、九男の為仲の六人の息子たちを率いて白河北殿に参上しました。

しかし着くと、平忠正がいたものの清盛の姿はありませんでした。崇徳上皇も落胆しました。
兵は約500、帝方は倍以上の1000はいるという情報でした。
六尺以上身の丈がある為朝は進言しました。
「数の劣勢を撥ね返すには、夜討ちしかござりませぬ」
すると博学を自認する頼長が罵倒しました。
「夜討ちなど卑怯な事を! これは上皇様と帝との戦いであるぞ。堂々とやらねば!やがて南都からも援軍が来る」
「そんな悠長な事を・・・」
「黙れ!そちの指図は受けぬわ!」
頼長はあくまでも勝利を期待した甘い判断でした。為朝はじっと悔しさを噛みしめました。

その頃、帝方では源義朝が夜討ちを提案していました。「夜討ちは卑怯ではないのか」と関白忠通が難色を示したのに対して、信西は、
「戦(いくさ)は勝たねばなりませぬ!」
信西は確信していました。誇り高い頼長が、夜討ちを許す筈がないと・・・
(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?