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第92回 延子の悲劇

小一条院となって、道長の娘の若い寛子の婿に迎えられた敦明親王には実は前からの妃がいました。
あの左大臣顕光の次女延子です。7年前、敦明親王17歳、延子は10年上の27歳でしたが、夫婦仲もよく皇子2名、皇女1名の3人を儲けていました。

前年、敦明親王が皇太子になった時、父の顕光は大喜びでしたが、延子はそれまでの幸せな生活で充分でした。
しかし今、東宮辞退そして道長の女婿となってしまって、敦明親王も敦明親王で高松殿で歓待されてずっと入り浸って、延子の住む堀河院へは来る事もしませんでした。高松殿と堀河院は2~300mほどしか離れていません。延子は近くにいるのに会えない敦明親王をどう思ったでしょうか。

嘆きが延子を襲います。顕光も涙を流して嘆きますが、相手が道長では面と向かって文句も言えません。同居していた長女元子に八つ当たりをして、元子はまた堀河院を出たり入ったりしました。
何も知らない4歳の敦貞親王はよく祖父の顕光が馬になってあげるのをねだります。涙ながらに馬になる老いた顕光。敦貞親王は無邪気に馬だと思ってお尻を叩きます。その姿をまた延子は涙して見るのでした。

そんな生活が1年半続いて、ついに寛仁3(1019)年4月10日、延子は吐血して亡くなります。36歳でした。
敦明親王は知らせを聞いて慌てて来ますが、時すでに遅し。葬儀だけはきちんとし、子供たちを三条上皇の子と格上げし、誠意を示します。

顕光もその2年後78歳で怨みを呑んで亡くなり、「悪霊左大臣」として道長一家に祟るのでした。寛子は延子と顕光の怨霊に怯え、27歳で亡くなります。道長は眼病になり(三条天皇と同じ病気)、栄華の後、終盤は娘を次々と亡くす悲しみの人生となりました。

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