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第35回 皇后定子の崩御

長保2(1000)年3月末、皇后と表面上格上げされた形の定子(24歳)が三度めの懐妊をした事が分かりました。
道長はもちろん面白くなく、「一度出家された女性がまたも懐妊などと・・・」と陰口を叩いたのは間違いなく、他の公卿たちも追従したでしょう。しかし一条天皇は定子を愛し続けました。
後年『源氏物語』で帝が他の人々の反対を押し切って、桐壺の更衣を愛し続けたのと似ています。
前述しましたが、懐妊すると宮中から去って、他の邸に行かなければなりません。血の穢れを重んじたのです。実家が没落している定子は、家来の平生昌(なりまさ)の邸に出向きますが、お付きの清少納言は「門が小さいため、牛車が入らず、私達は歩いて入る羽目になって人々から見られたわ!」と文句を言った事が『枕草子』に載っています。(前回の懐妊の時)
8月8日に一条天皇は身重の定子を召し、同月27日に定子はまた生昌の邸に帰りますがこれが今生の別れとなりました。
定子は12月15日に皇女を産んだ後、肥立ちが良くなく16日に崩御したのです。(皇后は天皇と同じ呼び方)
5歳の修子内親王、2歳の敦康親王を遺しての崩御は定子にとっては無念だったでしょう。
「夜もすがら契りしことを忘れずは 恋ひ涙の色ぞゆかしき」-私の死んだ後、あなたが恋しがって流す涙の色はどんなのでしょう。それが知りたいのです。
定子の遺詠ですが、香子は夫婦の悲しい別れに涙した事でしょう。しかしこの僅か4ヶ月後、我が身にも同じ事が迫っていたのでした。(続く)

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