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第19回 清盛の母の死と忠実の失脚

保安元(1120)年7月12日、数え3歳の清盛を残して、母清子は病死してしまいます。年齢は20代半ばでしょうか?
夫の忠盛は25歳。後添えに中の関白家の隆家の子孫、藤原宗兼の娘宗子(17歳)が選ばれ、やってきます。(後の池禅尼:武家なので嫁取り婚)
継子扱いをされはしないかと、祖母の祇園の女御は自分の御所に引き取ります。それで「清盛の母は祇園の女御」という伝承ができたものと思われます。
1972年の大河ドラマ「新・平家物語」では祇園の女御を新珠三千代さんが演じていて、吉川英治さんの原作通り、白河法皇から祇園の女御を忠盛が賜った事にされていました。
やがて武士の妻の生活が嫌になった女御は、夫と清盛を捨てて去っていくという設定でした。そして後妻の宗子が来るという段取りです。

いつまで清盛が女御の庇護を受け、また平家の嫡男として迎えられたかは分かりません。清盛が12歳で異例の左兵衛佐(すけ)に任じられて堂々と馬で行進したり、石清水臨時祭で舞い人を務めたりするのを、祇園の女御は白河法皇と共に眺めたという記録があるので、それ以降の事で、法皇・女御の後押しがあり、人物的にも優秀だったので、忠盛も嫡男としたのでしょうか。

さて、清盛の母が亡くなった同じ年の10月、白河法皇(68歳)はこの頃、はまっている熊野詣で(4年連続6回目)に出かけます。私も那智の滝は一度訪れた事がありますが、神々しいですものね。
そしてその間隙を縫ってというか、関白忠実(43歳)は鳥羽天皇(18歳)に娘勲子(26歳)の入内を要請します。12年前に白河法皇の方から要請があったのを警戒して今は辞退しますと言ってそのままになっていたからです。

ところが11月に帰ってきた白河法皇はこの事を聞いて激怒。
「中宮に璋子がおるのに、勝手な入内など許さぬ。朕のおらぬ間に」
と、かつて勲子を自分の女にしようとした事は棚に上げ、忠実の関白の職務を停止させ、勘当閉居を左大臣源俊房を使って申し付けます。そして勲子の入内は永久にならぬとも付け加えます。忠実は平伏するしかありませんでした。
かつて四代の祖、道長は甥の三条天皇を苛めて退位に追い込み、また外戚関係の無い皇太子敦明親王に圧力をかけて辞退させると、やりたい放題をやっていました。今や摂関家と天皇家は完全に逆転。忠実は白河法皇の逆鱗にひれ伏すしかないのでした。(続く)


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