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第29回 瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ

これは崇徳院の『百人一首』に採られている歌で「岩にせきとめられる急流が二つに分かれてもまた一つになるように、恋しいあの人とは今は別れても、いつかきっと逢おうと思う」という意です。
落語にも使われているこの歌は「久安(きゅうあん)百首」(1150年までの歌を編纂)に入っていますが、この状況は保延5(1139)年に現れていました。

鳥羽上皇は、新しい女御・得子が産んだ躰仁(なりひと)親王を子供がいなかった崇徳天皇の皇后・聖子(18歳)の養子としました。
これは鳥羽上皇・得子・聖子の父忠通の共同の策略で、早く皇位を譲らせるためのものでした。また聖子の地位を安定させたいという忠通の親心でもありました。
しかし純情な聖子は一身に、躰仁親王の養育をしました。昼も夜も。
ここに崇徳天皇の心に隙ができてしまいます。

この寂しい隙間で、天皇は心配してくれる女房・兵衛の佐(すけ)を愛してしまい、懐妊します。そして翌年9月皇子を産みます。重仁親王でした。

聖子の父・忠通は烈火の如く怒ります。そして娘を悲しませた崇徳天皇の敵に回るのでした。
「瀬をはやみ」の歌はやはり、皇后聖子に対して詠まれたものなのでしょうか?(続く)


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