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第122回 修子内親王の死

永承2(1047)年8月、高松方の頼宗(55歳)は、権大納言から内大臣に昇進します。前年の右大臣実資の死によるものでしたが、関白左大臣頼通(56歳)・右大臣教通(52歳)・内大臣頼宗と三兄弟で占めた訳です。この体制は、頼通が自らの後継者で19歳の師実を強引に内大臣に引き上げるまで何と足掛け14年も続きました。頼宗は能信と違い、鷹司方とは協調していた様でした。
10月には教通の娘歓子(27歳)が後冷泉天皇(23歳)の女御として入内します。教通とて摂関家の御曹司。帝の外祖父の夢を抱いていました。

翌年4月に河内源氏の頼信が81歳で亡くなり、息子の頼義(61歳)が継ぎました。頼義の後継者義家はまだ幼く10歳でした。
源義家と懇意になる大江匡房(鳥が乱れたら伏兵がいると教え、義家は後三年の役の勝利しました)は8歳でしたが、「史記」「漢書」に通じその聡明さが有名になっていました。赤染衛門の曾孫ですが、衛門の消息は不明です。

そして翌永承4年2月。一条天皇の生き残った最後の子である修子内親王が54歳で亡くなりました。大宮彰子は62歳となっていました。
皇后定子を母に持ち、第一皇女として生まれながら、母の実家中の関白家は衰運。道長一家に取って代わられ、どんな思いで世の中を見ていたのでしょうか?
母定子が亡くなった後、弟敦康親王は中宮彰子の元に引き取られますが、修子内親王は一緒に行く事をせず、叔父隆家の所に行っています。
大宮彰子とは付かず離れずの距離でいた感じですが、頼みにしていた清少納言や隆家も亡くなり、寂しい晩年だったかも知れません。

生涯独身だった修子内親王は、従姉妹(伯父伊周の娘)を母に持つ、頼宗の娘延子を一時養女として、延子が異母弟・後朱雀天皇の女御になった時はもちろん応援したでしょうが、その後朱雀天皇も崩御してしまいました。
延子の産んだ幼い正子内親王を見ながら、ささやかな慰めとしていたかも知れません。(続く)

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