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第23回 藤原長良(ながら)の死

斉衡(さいこう)3(856)年7月、権中納言長良が55歳で亡くなりました。藤原冬嗣の長男。2つ下の弟にはやり手の良房がいます。
この頃、業平は32歳。ところが30歳前後5~10年間は全く出仕の形跡が見られず「放縦の10年」などと書いてある本もあります。ちょうど26歳で長男棟梁(むねやな)が生まれた後くらいからです。まあ出仕をしなくても、母親の伊都内親王には財産がたくさんあった様ですから暮らしには困らなかったでしょうが、母親を心配させたでしょうね。

この長良もいつもにこにこ。弟に官位を抜かれても怒る事も拗ねる事もなく。結局11歳下の良相(よしみ。これからよく出てきます)にまで追い越されてもマイペース。精励ではなかったといい、宮中では業平の良き「サボりの先輩」だった様です。
ただ長良は子供には恵まれて、2人の妻から6男3女。男の中では基経という摂政関白太政大臣にまでなる出世の息子と、高子という国母になる娘も持ちます。
これに対して弟の良房はやり手で嵯峨天皇に信任され、その皇女を、皇女は当時臣下にやれないという事で源潔(きよ)姫として貰っています。その間に生まれた明子(あきらけいこ)は文徳天皇の女御となって清和天皇を産みます。但し妻は潔姫だけで、子も明子だけなのです。その点を大学教授に聞くと、
「女性より権勢欲の方が上回っていたのでしょうかね」との答え。何となく ? という感じで。「英雄色を好む」とあって権力も女も手に入れたいという輩がいっぱいいる中で、まあ女嫌いだったかも知れません。

そして良房と長良は仲が良く、男子の中から一番優秀な基経を15歳の時に養子として貰い、長良が亡くなってまた15歳の高子を養女として、将来自分の孫・惟仁親王(当時は7歳)の妃にしようというのはみえみえの事でした。

高子は叔母である皇太后・順子のいる東五条第の西の対に引き取られ、妃になるための準備をします。しかし順子は余り高子の事を好きではなさそうでした。理由は、順子は仁明天皇の女御だったのですが、高子の母乙春(たかはる)の姉・沢子も同じく仁明天皇の女御で一番寵愛を受けていたのでした。そして高子はその叔母沢子と面差しが似ていたと思われます。
順子はだからよく東五条第を留守にして別の所に行っていました。西の対にいる高子の周辺は寂しいものです。その隙を狙って、3年後、業平が高子の元に忍び込むのです。まるで『源氏物語』の柏木がひと気のない六条院の女三宮の所に忍び込んだように・・・って、こっちを紫式部が真似たのかもしれませんね。

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