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第94回 元良親王の恋のゆくえ

宇多法皇(57歳)という老人しか知らなかった京極の御息所褒子(16歳)は若い元良親王(34歳)との恋に一時心が揺れました。
しかし法皇との間に皇子が二人いる身。法皇も久しぶりに来ても責めませんでした。
褒子は親王に別れを告げました。
恐らく延長2(924)年1月の終わりか2月の初め、梅の花に寄せて褒子は親王に歌を贈りました。
「吹く風にあへてこそすれむめの花 あるににほへる我が身となみそ」
ー吹く風に堪えられないでこそ散るのです、梅の花は。同じ様に私も世間の目に堪えられないから貴方との関係を終わりにするのです。でもすぐ散ってしまうために咲き匂っていた、いい加減な気持ちでいた私だと思わないで下さい。

宇多法皇も元良親王への手立てを考えました。腹心の忠平に相談しました。
「それではかつて陽成院様に院の妹君の綏子内親王を妃にされてご機嫌が直った様に、どなたか内親王様を妃にされてはどうでしょう?」
こうして、醍醐天皇の第8皇女で、19歳の修子(ながこ)内親王が選ばれ妃に決定した。元良親王は受け入れました。忠平は言いました。
「内親王様は更衣腹ではございますが、お美しい方でございます」
「何の、元良とて朕と違って宮腹ではない」
宇多法皇も満足していました。

3月11日、宇多法皇は褒子を従二位に叙しました。これが全ての手打ちでした。
しかし元良親王は褒子に歌を贈ってきました。
「いとどしく濡れこそまされ唐衣(からごろも)逢坂の関 道まどひして」
ー逢いに行く道に迷って、私の唐衣はいよいよもって涙で濡れるばかりです。
受け取った褒子は半ばあきれていました。
「修子内親王と婚礼したばかりなのに・・・内親王様もお可哀想な事・・」
褒子は返しの歌を贈りました。
「まことにや濡れけりやとも唐衣 ここに来たらば問ひて絞らむ」
ー本当ですか、涙にお濡れになったのですか。貴方が私の所へ着ておいでになったなら、唐衣を絞って差し上げましょう。でも、もう貴方のおっしゃるのは、気休めだけでしょう。
更に数日後、褒子は今までに貰った恋文を歌をつけて送りかえしました。
「破(や)れば惜し破らねば人に見えぬべし 泣く泣くもなほ返すまされり」-宮様のお手紙は思い出は懐かしいのですが、お返し申し上げます。破り捨ててしまうには惜しい。かといって、破り捨てなければ人に見られてしまうでしょう。泣く泣くも、やはりお手元にお返しするのが宜しうございます。

元良親王は自ら贈った恋文の束を見て、恋の終わりを感じた事でしょう。新しく妃となった修子内親王はどう思ったでしょうか?内親王は佐頼王という王子を産んでいます。
この項は拙著『伊勢物語誕生』から抜粋しました。(続く)

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