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第7回 桓武天皇の苦悩(2)

昨日、Wikipediaを見ていたら「道鏡は、志貴皇子の落胤という説がある」というのがあって、ビックリしました!その説が本当なら、道鏡は白壁王の異母兄そして桓武天皇の伯父になってしまいます。

しかしこの説にはほとんどの人が否定的です。なぜならほんとに皇統なら、後に出てくる「皇位神託事件」であんなにビビらなくていい訳です。堂々としていればいいのですから。

とにかく44歳にして孝謙上皇は62歳のインテリの道鏡と出会い、寵愛しました。プラトニック(?)だったと思いますが、別にそれはどちらでもいいです。
ただこの道鏡の専横を快く思わない者も多く、後継者を巡っていろいろと陰謀・暗躍が乱れました。

藤原式家の百川(当時の名は雄田麻呂ですが百川で統一します)は769年時で38歳。幼少の頃から聡明でそしてなかなかの野心家でした。彼はある理想を持っていました。素晴らしい帝の元で手腕を振るいたいと。ここで目に留まったのは天智系であるもの人物的に壮大な山部王(33歳)でした。
山部王を推し戴(いただ)いて、新しい政治をしたい。ちょうど「明治維新」の様なものを志していたのでした。
百川は手段を選びませんでした。769年の宇佐八幡宮神託事件も彼が中心となって画策したとも言われます。

5月に「道鏡を皇位に就かせたら天下は泰平となる」という神託が奏上されます。道鏡も皇位を望みます。この頃、重祚して即位していた称徳天皇(もと孝謙上皇)は悩みます。恋する道鏡に天皇位を譲ってあげたいが本当にそんな事をしていいのだろうか?と。
8月、称徳天皇は信頼する和気広虫という女性を宇佐八幡まで送ろうとしますが、九州までは遠いので弟の清麻呂を派遣します。
ところが帰ってきた清麻呂は真逆の事を言い、皇族以外には就けてはならぬという神託を言います。
怒った称徳天皇は清麻呂を「穢(きたな)麻呂」、広虫を「狭(せま)虫」を改名させます。何だか子供の仕返しみたいですね。

結局、改めて称徳天皇は「次の天皇は皇族の中から私が決める」事を宣言してこの事件は決着します。
そして翌年8月、称徳天皇は体調を崩します。里中満智子さんは作品『女帝の手記』で毒を盛られた様に描いています。さもありなんという感じでしょうか。
称徳女帝は53歳で崩御します。でも彼女は人生の最後10年を恋する人と過ごせたので幸せだったかな?

そして皇位継承は紛糾します。右大臣吉備真備は天武天皇の孫がまだ生きていると推薦しますが、百川ら藤原氏が。称徳天皇の遺勅を捏造して、白壁王を推薦したのです。白壁王は称徳天皇の異母姉井上内親王を妃にして皇子も生まれていました。

白壁王は62歳で光仁天皇として即位します。今上天皇が59歳で即位された際、この光仁天皇も最高齢の即位として参照され、今上天皇は2位と紹介されていました。光仁天皇は数え年ですから満換算だったら更に近づくでしょう。

そして百川らの第二弾は決行されます。井上内親王は皇后となり、皇子の他戸(おさべ)親王は皇太子となって喜びますがそれも束の間。天皇呪詛の罪で1年4か月で内親王は皇后を廃され、他戸親王も廃太子。入獄されます。
773年1月、37歳の山部親王(親王に昇格していました)をついに皇太子にしたのです。

775年4月2日、哀れ、井上内親王(59歳)と他戸親王(15歳説と20歳説あり)は同日に獄死。毒殺だったと言われます。

自分が手を下していないとはいえ、山部親王はこの事実をいつ知ったのでしょうか?
779年7月、百川はあんなに熱望していた山部親王の即位を見ずに48歳で亡くなります。百川死後に、山部親王は全てを誰かから聞いたのでしょうか?
血で穢れた怨霊の都・平城京。ここから出たいと山部親王は思ってもおかしくありません。(続く)

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