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第47回 保元の乱前夜

後白河天皇の即位と同時に、守仁親王(13歳)も仁和寺から呼び戻されました。親王も誕生から波乱万丈でした。生まれるとほぼ同時に生母は亡くなり、美福門院得子の養子になりましたが、9歳の時に仁和寺の叔父覚性法親王(璋子の産んだ最後の皇子)の元にやられました。将来は僧にという事でしたが、4年で今度は東宮として呼び戻されたのです。
守仁親王は覚性法親王に挨拶したでしょうが、希望に燃える親王を見てどう思ったでしょうか?

守仁親王は父・後白河天皇には好意を抱いていませんでした。生まれるとすぐに養子に出し、自分はすぐに別の女性を妃にし、今様三昧。尊敬もしていませんでした。むしろ「私のお蔭で、帝になられたのではないか」そう思う様になりました。

美福門院得子は早速自分が産んだ皇女の15歳の姝子(やすこ)内親王を妃とし、自らの血統が繋がる事を画策しました、しかし不幸にも姝子内親王が愛される事はなく、後年別の僧に愛を求めています。

一方、平清盛(38歳)の後室となった時子は、最初の不妊が嘘の様に多くの子女を産んでいました。宗盛、知盛、重衡(しげひら)、徳子(後の名)、盛子などです。

源氏の方は為義の八男為朝が2m(伝説)の上に剛弓で乱暴者、九州へ追放したら「鎮西八郎」と称して暴れまわるので、為義は検非違使を解官されました。しかし次男の義賢との関係でしょうか、頼長の私兵になっていました。
長男の義朝との不仲は相変わらずで、鳥羽法皇は何かの時(崇徳上皇が謀反をするかもしれないと思っていました)のために義朝を武力として保持しておこうと思いました。
その頃、義朝には常盤という新しい愛人というか妻ができて没愛し、正室の由良御前を悲しませてもいました。(続く)


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