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第109回 冷泉天皇の誕生

陽成院の崩御の翌年、天暦4(950)年は、村上天皇の後宮に慶事が続いた年でもありました。
正月に、まず中納言藤原元方(南家:63歳)の娘の更衣・祐(すけ)姫が皇子・広平親王を産みました。第一皇子だったので、元方はとても喜びました。「南家からまた皇太子が出るかも知れない」
南家は祖・不比等の長男で一時羽振りが良かったのですが、「仲麻呂の乱」以来すっかりと逼塞(ひっそく)してしまっていました。業平の相婿・敏行(住の江の岸による波よるさへや・・・)も南家でした。

しかし強敵の娘が懐妊していました。右大臣師輔(北家:43歳)の娘で女御・安子(24歳)です。そして生涯子供はできないのではないかと言われていた朱雀上皇(28歳)の妃・熙子女王も懐妊していました。
これには母后・穏子(66歳)も大層期待していました。熙子女王の父は21歳で若死にした東宮・保明親王(道真怨霊のせいと言われた)、母は大恩ある兄・時平の娘です。それぞれの血が繋がるからです。

当時、庚申(こうしん:かのえさる)の御遊というのがありました。今でも庚申待として残っているそうです。人間には三厂(さんし)の虫が体内にあり、庚申の夜、天に昇ってその人の悪事を言って寿命が縮められるかも知れないと思われていました。ですから人々は徹夜して虫が昇れない様にするのです。
その夜、宮中では双六が行われていました。右大臣師輔が賽(さい)を振りますがその時に願掛けを言います。
「今度生まれて来るのが皇子ならば重六(ちょうろく:どちらも六の目)よ、出よ」
落ちた2つの賽はどちらも六、重六でした。人々は「おーっ!」と感嘆の声を上げます。
人々の喝采の陰に、元方は顔色を失くして立ち去ったと言われます。(『大鏡』)

5月5日に熙子女王の方が先に皇女を出産します。昌子内親王です。(内親王になったのは8月)。しかし熙子女王は産後の肥立ちが悪くそのまま亡くなってしまいます。
朱雀上皇は悲しむもこの一粒種の昌子内親王を可愛がりますが、内親王が3歳の時、30歳で崩御されてしまいます。紫式部が『源氏物語』で朱雀院が女三宮を溺愛するのはこの史実を踏まえての事でしょう。

さて、5月24日、師輔の予言通り、安子は皇子を産みます。憲平と名付けれた皇子は7月15日に親王宣下、更にその8日後に生後2か月にして東宮となります。
その間、7月3日には陽成院の長男・大納言源清蔭が67歳でひっそりと亡くなってしまいます。

早くも昌子内親王を将来の東宮妃になどと、九条家(師輔の家系)は喜びに包まれていますが、やがて憲平親王には様々な奇行が見られる様になりました。それは憲平親王誕生の3年後に無念の気持ちを持って亡くなった元方の怨霊のせいと言われる様になりました。
朱雀天皇同様、冷泉天皇の名も紫式部は『源氏物語』で使っています。光源氏と藤壺の密通でできた皇子として。(続く)


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