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第136回 以仁王と高倉天皇の異母兄弟。

治承3(1179)年11月25日に清盛は、後白河法皇の第三皇子である以仁(もちひと)王(29歳)の荘園を取り上げ、自分と仲の良い天台座主の明雲(みょううん)のものとしました。しかし清盛にも言い分はありました。
「もともとは最雲(さいうん)法親王(堀河天皇の皇子。以仁王を引き取っていた)の所領。法親王様の弟子である明雲殿に返すのであるよ」
しかし以仁王も最雲法親王の弟子であったし、英明と謳われた以仁王は異母弟である10歳も下の高倉天皇(清盛の義理の甥)に皇位を簒奪された事を恨みに思っていました。
「平家をいつか倒したい」そう思う様になっていました。
一方、高倉天皇(19歳)は実父・後白河法皇と清盛の対立に一人気を揉んでいました。法皇は鳥羽殿で軟禁状態でした。

翌年正月二十日、数え年・3歳の東宮言仁(ときひと)親王の御袴着(はかまぎ・七五三のもと)・御真魚(おんまな)始め(初めて魚を食すこと)が行われ、高倉天皇は何か決意した様でした。
2月になって高倉天皇は清盛に言いました。
「相国(しょうこく)よ、朕はは譲位する」
清盛の外孫を帝にする事によって、清盛の怒りを解き、父法皇と和解させるためでした。
「ははっ」
清盛は喜びの余り、大いに平伏したのでした。(続く)


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