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第52回 能円(のうえん)

能円は、平清盛の継室時子の異父弟です。実の娘在子は後鳥羽天皇の後宮に入り土御門天皇を産んでいるので、現天皇の直接の祖という事になります。

異父弟というのは微妙な感じで、母親は白河法皇の皇女令子内親王の半物(女中でも位が高い方?)と言われています。令子内親王は姉の媞子内親王ほど美貌ではなかったのか余り白河法皇に寵愛されたという記録はありません。(媞子内親王が21歳で亡くなると悲しみの余り白河上皇は出家して法皇となったと言われます。媞子内親王は亡き母后賢子に似ていた?)
しかし令子内親王は独身でしたが、風流人の評を受け、あの待賢門院璋子らと共に『源氏物語絵巻』の作成に尽力しています。

ところで、能円は1140年の生まれ。前夫の平時忠が1149年まで生存しているので生別という事になりそうです。新しい夫は、皇后宮亮・藤原顕憲という事で二人は宮中で知り合ったのでしょうか?(推測)なお顕憲は紫式部の夫宣孝の兄説孝(のりたか)の子孫です。説孝の妻は源明子といって、紫式部によって『源氏物語』に登場させられた源典侍だと言われています。

能円は14歳年上の異父姉時子に目をかけられ、法勝寺の執行に任じられます。更に僧籍ではあったけれど、やり手の公卿・藤原(後に高倉)範季の姪範子と結婚して1171年に在子を儲けます。
1180年に高倉上皇に第4皇子尊成親王(後の後鳥羽天皇)が生まれると、皇子は範季が養育する事になり、姪の範子も乳母となります。

そして1183年7月、平家が西国へ都落ちする時、能円も従います。この時安徳天皇と第2皇子守貞親王、そして能円は範子と尊成親王にも来るよう連絡します。行こうと準備していた範子を止めたのは範季でした。
「これからこの尊成親王に輝かしい未来が来るのに行ってはならぬ」
能円は仕方なく単独で平家に同行します。

そして当時権勢を振るっていた後白河法皇の愛妾丹後の局の応援もあって尊成親王は後鳥羽天皇となります。ここで範子に近づいてきたのが、土御門通親でした。平教盛の娘を正室として子供もいたのにそれを捨て、範子に求婚してきたのです。
範子もそれを受け入れ、野心家・通親の妻となります。

2年後、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡。能円は生きて捕虜となり、備中に流されます。
1189年に能円は許されて帰京しますが、その時、元妻の範子は二人の男子を産み、更に妊娠中でした。その長男は後に久我家(戦後のスター、久我美子の祖)、生まれた男子の子孫は北畠となります。

意気消沈した能円はどこかでひっそりと暮らしたのでしょうか。
拙著『平家物語誕生』では主人公源光行と語らう場面を設定しました。
実の娘在子は通親の養女として後鳥羽天皇の後宮に入り、1196年に第一皇子を産みます。そしてその皇子が1198年に土御門天皇になったという事を知り、1199年に亡くなるのでした。50歳。

今回また調べ直していて別の発見がありました。能円の異母兄(異父とか異母とかややこしいですね!)の藤原盛憲の叔母は摂関家の藤原忠実の妻となった頼長を産んでいました。盛憲も頼長に仕え、保元の乱では処罰されました。その盛憲の子孫が丹波の上杉氏となったのです。
上杉氏の支流に長尾氏がおり、『鎌倉殿の13人』には出てきませんでしたが、公暁を殺害した長尾定景がいます。
上杉氏は足利尊氏の母清子を輩出しており、また関東管領になりました。ご多分に漏れず内紛がありましたが、また長尾家から優秀な景虎を養子に迎え上杉謙信になっています。
江戸時代になると足利の一族吉良家と交流を持ち、討ち入りに援軍を出さなかったので処罰されたりしています。また財政難を救った上杉鷹山も子孫であり、やっぱり歴史の連綿とした繋がりは面白いですね!

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