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第37回 璋子の一周忌と西行の離京

皇位継承とは無縁で気楽な雅仁親王(後の後白河天皇)の今様好きは10歳過ぎから始まりましたが、常軌を逸するものがあった様です。昼も夜も歌い明かし、声が出なくなった事は3度、内2度は喉が腫れて大変だったそうです。ずっと遊興に過ごし、御所には今様の上手い、雑仕、遊女、傀儡(くぐつ)なども出入りしていました。
しかし19歳の時に母璋子が亡くなった時はさすがに落ち込んでいたのを、兄の崇徳上皇が自分の御所に呼び同殿しました。
雅仁親王は最初は大人しくしていましたが、やがてやはり今様狂いはやめられなかったようです。しかし後年、『梁塵秘抄』という歌謡集を編纂しています。「遊びをせんとや生まれけむ」は後白河天皇の人生観を著わしています。帝位に付かず、風流な芸術家としての一生の方が似合っていたかもしれません。最初の妃が産褥死した後、20歳頃、母璋子の弟・季成の娘で従姉妹に当る成子を次の妃にし、成子は式子内親王や以仁王など2男4女を儲けましたが、終生重んじられる事はなく、やがて平清盛の義妹・滋子(建春門院)に寵愛を奪われました。

久安2(1146)年8月22日、三条高倉第で、璋子の一周忌が行われました。鳥羽法皇・崇徳上皇、そして璋子の子ら全員が集まりました。
鳥羽法皇と崇徳上皇はこの頃はそんなに不仲ではなく、険悪になったのは近衛天皇が17歳で夭折し、崇徳上皇や頼長が呪詛したせい(焚き付けたのは恐らく忠通)と言われ、それを信じたからです。

その年の冬、西行は清盛と共に崇徳上皇の所に参上し、京を離れる事を伝えました。内心では璋子の面影を忘れようとしてでした。また崇徳上皇は清盛の事を同じ白河法皇の胤だと思っていたでしょうか?

西行が京を離れて、ある川(天竜川?)で舟に乗っていた際、後から無理に乗ろうとする荒くれの若侍に遭遇してしまいました。
「その坊主、降りろ!」と西行に言いました。しかし西行は降りなかったので、若侍は棒で何度も打ち、頭からは血が流れました。西行はじっと我慢していたそうです。(そして降りたという説もあります。すべて創作とも悲)
拙著『清盛の時代』では「昔、亜子(娘)を足蹴にして亜子は頭から血を流した。その報いじゃ・・・」と書きました。

マンガ『巨人の星』では、親友・星飛雄馬を信じられず絶交した伴宙太が誤解と分かり、一緒に多摩川の巨人軍入団テストを受け、堀内恒夫(作中)から死球を受けた際、伴は「軽はずみに絶交した報いが、このどてっ腹の痛みじゃ」と思ったと描かれていましたがその心境でしょうか?(最後、かなりマニアックでした笑。いや全体的にマニアック?) 続く。

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