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第92回 京極の御息所褒子(よしこ)

その頃いろいろな動きがありました。延喜13(913)年、宇多法皇(47歳)の寵姫となっていた歌人伊勢(42歳?)が、法皇の皇子・敦慶(あつよし:27歳)親王の娘(後の歌人中務:なかつかさ)を産んだのです。夫の息子との間に子を産んだ訳ですから、後に紫式部は『源氏物語』に応用した事でしょう。敦慶親王は妃の異母妹である均子内親王(母は基経の娘温子)を3年前に亡くしていたので、宇多法皇の了承済みという事でしょうか?まあ、今でもありますけど、40代で20代の男を憧れさせるとは、伊勢はやはり魅力ある女性だったのでしょうね。

また延喜18年には、坂東から平将門(16歳)が忠平の元に仕えています。出世できずに坂東へ帰り、やがて反乱の大将にされてしまうのですが・・・
延喜19年。醍醐天皇(35歳)、そして妹である弘徽殿の女御穏子(34歳)の信頼を今ひとつ勝ち得ていない忠平(40歳)に千載一遇のチャンスが訪れました。
30人以上の后妃がいる醍醐天皇は、亡き時平の娘褒子が13歳になって美しいというので入内をその兄保忠(28歳)に命じます。

これに悩んだのが穏子でした。叔母と姪が寵愛を争う。不愉快な事態です。かつて穏子の叔母高子が、姪二人が清和天皇に入内する事態に非常に不快であったと聞いた事がありました。しかし褒子入内は既定の事です。
ここで忠平が暗躍します。仁和寺にいる宇多法皇に誘いをかけるのです。今、褒子を奪って罪にならないのは法皇しかいません。
月日は分からないのですが、褒子は翌年4月に法皇の皇子を産むのでその年の春か夏でしょうか。
入内のため前夜から宮中にいた褒子を「老僧参上」と言って宇多法皇がさらってしまったのです。恐らく最近献上された河原院(かつて源融が住んでいた)にしけこんでしまいます。

事態の顛末を聞いた醍醐天皇はさぞあんぐりと驚いた事でしょう。しかし父の仕業ではどうしようもありません。穏子は喜び、時平に傾いていた気持ちを改めて忠平に向け、感謝したのでした。
仕方なく(?)というか負い目もあるので天皇は穏子を召します。そして穏子も17年ぶりに懐妊し、偶然褒子と同じ翌年の4月に皇女(康子内親王:藤原師輔の妻となり、公季ー閑院家。すなわち璋子の実家)を産みます。
後年、褒子と密通する元良親王は30歳でした。

褒子の母親は明記されていませんが、時平が伯父国経から奪った若い妻の可能性があります。業平の孫娘です。この家系は「奪われる女性」がまとわりついていますね。
ところで河原院で若い妻と夫婦生活を楽しんでいた宇多法皇ですが、ある夜、融の亡霊が出て、褒子は失神してしまいます。これは「夕顔」のモチーフとなりました。恐らく融の家来たちが悔しくて法皇を脅かしたと思うのですが。これに懲りた法皇は京極の邸に褒子と子供たちを移転させます。そして「京極の御息所」と言われる様になりました。河原院はその後、誰も住む者がおらず廃墟と化してしまったのでした。(続く)

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