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第119回 徳子入内

嘉応3(1171)年正月3日、高倉天皇は11歳で元服しました。形上は成人です。
清盛は8人いる娘の中から、正室時子腹で更に才色兼備の徳子(入内前に命名)が17歳で少し年上でしたが、后にしようと目論んでいました。
平家から中宮(皇后)を出す。これには後白河法皇の助力が必要です。
根回しをいろいろして10月に、後白河法皇は寵妃滋子(清盛の義妹)を伴って、清盛自慢の福原(神戸)の別業に御幸しました。もう何度も来ていて、好奇心旺盛な法皇は周囲の反対を押し切って宋人とも面会しています。
今回はもちろん徳子の入内打ち合わせです。

12月、ようやく徳子は入内の運びとなりました。箔をつけるために、後白河法皇の養女という形を取りました。これには亡き忠通の三男で、気鋭の九条兼実が反発しました。
「白河法皇の養女・璋子様に倣ったのでしょうが、それならば姉弟になってしまうではござりませぬか」
兼実は温厚な兄達と違ってはっきりと物を言う存在でした。しかしその意見は無視され、徳子は14日に入内しました。翌年2月に徳子は立后し、中宮となります。これで皇子が誕生すれば、道長全盛の時に劣らぬ平家全盛となります。
「思えば白河法皇は道長公の玄孫。ならばわしにも道長公の血が流れているのだ」
清盛は満足でした。しかし喜びも束の間、高倉天皇は女房の小督に心を奪われていると言います。それは何と高倉天皇の寵愛の女房が亡くなったのを徳子が小督を勧めたという事でした。しかも小督はかつて同盟を組み、平治の乱で殺された信西の孫娘でした。そして徳子は嫉妬もしてないと言います。
「何と因縁な」
清盛は思いました。 (続く)

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