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第116回 為平親王の婚礼と村上天皇崩御。

皇后安子の死後、村上天皇は、安子のライバルだった宣耀殿の女御芳子をあまり近づけなくなりました。安子が一番嫉妬していた相手だったからでしょうか。
その代わり、安子の同母妹で、天皇の弟・重明(しげあきら)親王の未亡人登子を入内させて寵愛しました。この登子という方は『蜻蛉日記』の作者とも交遊があった様です。

心配な東宮に対して英邁な弟の皇子為平親王は14歳で元服し、その翌年康保3(966)年11月25日、宮中昭陽舎において、右大臣源高明(53歳)の娘・三の君(18歳?)と婚儀をしています。
村上天皇は期待する為平親王と更に、異母兄である高明の娘を結婚させた訳で、少し藤原氏除外の匂いを感じます。
三の君の母は師輔のまた三女なのですが(すでに故人)、伊尹ら師輔の子供たちは緊張・警戒した事でしょう。
「このままでは、藤原氏から賜姓源氏に権力を奪われる」
尚、この年に道長(誕生日は不明)が生まれています。

村上天皇は安心したのと、翌年2月から4月にかけて東宮の異状が激しくなり心配の余りご自分が寝込んでいまします。
そして5月14日「天皇不予」という記事があり、25日に42歳で崩御されるのでした。父醍醐天皇と並んで「延喜・天暦の治」と、後世「聖代」と呼ばれる事になりました。
東宮憲仁親王(18歳)が践祚する事になりましたが、人々は不安に思っています。本来なら外祖父の師輔が関白になるのですが亡くなっていますし、外伯父の伊尹は44歳ですがまだ権大納言。血縁関係はないですが、臣下で筆頭である左大臣実頼(68歳)が6月22日、関白となりました。

さて、早急に東宮を決めなければなりません。人々は当然、為平親王だと確信していましたが、長々とした会議の末、9月1日東宮となったのは為平親王(16歳)の更に弟・守平親王(9歳:後の円融天皇)でした。
これは全く、源高明を警戒し、その女婿である為平親王を外したにならないのでした。更に悲劇の追い打ちが高明を襲います。(続く)

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