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第75回 一条天皇崩御

「あんなにも宮様が純粋であられたとは・・・」
 香子はとても信じられない気持ちでした。道長様は、自分が中宮に余計な知恵をつけたとでも思っただろうと、香子は心配になりました。

 六月十九日に、上皇となられた主上は寝たまま出家されました。その時に歌を詠みました。
「露の身の仮の宿りに君を置きて 家を出(い)でぬることぞ悲しき―露の様な身が仮に宿っている、はかない現世に、あなた独りを残して出家するのは悲しいことよ」
 彰子と香子はすぐに『源氏の物語』の「賢(さか)木(き)」の帖の、
「浅茅生の露の宿りに君を置きて 四方(よも)の嵐ぞ静心なき」
の本歌取りと分かりました。香子はこんな時だが光栄な気がしました。
 彰子は余りに悲しく、ただ泣いてばかりでした。

 その三日後の昼頃、法皇となられた主上はついに崩御されました。一条院をこよなく愛されていたので「一条の帝」と諡(おくりな)されました。
 彰子は辞世の歌を『源氏の物語』から主上が取られた事に、香子に感謝しました。
「主上もあの物語が大好きでした。式部、有難う」
 香子も余りの感激に平伏しました。
 泣き崩れる中宮彰子を香子はしっかり横で支えました。母君の倫子も付き添っていたけれど、中宮の香子への信頼が篤(あつ)いのをずっと訝(いぶか)しげに見つめていました。
 二十五日に御大葬(ごたいそう)が行われました。

 それから道長は顔を合わせても、香子を無視し、目を合わそうとしませんでした。そうかと思うと時折憎悪の表情で香子を睨んだりもしました。
 ああ、何回かの体の繋がりが何だというのだろう。またしても男の身勝手さに辟易(へきえき)したと香子は痛感しました。

そして香子の身内にも不幸が静かに忍び寄っていたのです。


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