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第38回 渚の院

清和天皇が元服した翌年、貞観7(865)年3月9日、業平(41歳)は右馬頭(うまのかみ)に任じられました。『伊勢物語』には「右馬頭」なる男がよく登場します。この時、惟喬親王は22歳。親王の外伯父である紀有常は51歳。不遇な(食べる者には困らないが)3人はよく集まって酒をたくさん呑んでいた様です。
第82段には「渚の院」で桜の時期に呑む場面が描かれています。
「いま狩する交野(かたの)の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木の下(もと)におり居て、枝を折りてかざし(冠)にさして、上中下(身分・全員)みな歌よみけり。馬頭なりける人のよめる。
業平『世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし』-この世の中に全く桜がなかったとしたら、春の人の心はのんびりしたものであったろうに。(かえって桜を讃えた歌)ー
また別の人(有常か?)『散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき』-あっさり散るからこそ、桜はますます賞美に値するのだ。そもそもこの辛い世の中に、何が永(なが)続きするのであろうかー

また場所を変えて、近くの天の河(今でもあります)で、親王が「天の河」を題で歌を詠み、呑もうと言います。また業平が、
「狩り暮らし棚機津女(たなばたつめ)に宿からむ 天の河原に我は来にけり」-一日中狩をして暮らし、今夜は織女(たなばた)に宿をかろう。私は天の河原へやって来たのだからーりくらしなばた・・・は交野(かたの)の「かた」を詠み込んだという高度なもの!(今日知りました笑)
有常「一とせにひとたびきます君まてば 宿かす人もあらじとぞ思ふ」ー織女は一年に一度おいでになる親王(惟喬を彦星に例える)をお待ちしているのだから、あなたには誰も宿を貸してはくれないと思うー親王を持ち上げると共に業平にたわむれた歌、と解釈されるそうです。

もう一往復の歌があるのですが割愛して、第83段で3月末、夜遅くまで呑んで、もう帰ろうとしてまた業平が詠みます。
「枕とて草ひき結ぶこともせじ 秋の夜とだに頼まれなくに」-ここで旅寝の草枕を結ぶことはいたしますまい。秋の夜ならば夜長を頼みにゆっくりできますが、春の短か夜ではその頼みも無理でしょうからー
しかし早く愛人の所へ行きたいのだろうと見破った親王が、わざと寝ずに徹夜して業平を帰さず、夜が明けたという事です。意地悪するほど、二人の仲がいい事を言ったものでしょうか?

さて、やはりこの「渚の院」を私は直に見たくなりました。今は「跡」だけだと書いてありましたが。大阪から京阪本線に乗って、「御殿山」に着き辿り着くと期待と不安を胸に降り立つと・・・辺りは完全に住宅街でした。渚の院はその後、観音寺になりましたがそこも廃寺となり、フェンスに囲まれた狭い土地に鐘楼と鐘しか残っていません。住宅と近くの小学校の中に埋没してしまっています。「渚の院跡」という碑がなければほんとに分かりません。何も残っていません。まさに「夏草や兵どもが夢の跡」です。

しかし千百年前のその楽しむ姿を私は必死に想像したのでした。

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