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第74回 基経の死

阿衡事件が一応解決し、翌年4月、寛平(かんぴょう)と改元されても、宇多天皇(23歳)の権力者基経への恐怖は止みませんでした。東宮から清凉殿に入る事ができず、東宮御所という事で宇多天皇はずっと東宮に留まっていたのです。
しかし新規の行事は努めて行いました。11月には初めて賀茂上下社の臨時の祭りをやったり、翌年正月には初めて四方拝を行っています。

2月に基経の三男仲平が16歳で元服する事になり、長男時平の時に倣って宇多天皇は加冠の役を務めました。
その頃、菅原道真が4年の任期を終えて讃岐から還都してきました。宇多天皇としては、基経にただ一人諌言できた人物に期待をしました。

やがて阿衡事件の失敗から籠居していた橘広相が病に臥したという情報が伝わってきます。
ここで一番後悔したのが基経でした。「ちと痛めつけすぎたか」
言いがかりとも言える「阿衡」への難癖。広相を文章博士の座から引きずり下ろしたのです。宇多天皇即位ではしゃぐ側近たちへの恫喝でした。
しかしこれで精神不安になるという事は、基経は悪党ではなく、意外と小心者の善人だったのでしょうか?

基経は必死に見舞いを送ったりしますが、5月16日、広相は53歳で亡くなります。
すると今度は精神不安から基経が病に臥しました。
ちょうど宇多天皇の女御にした娘温子が懐妊していました。基経は賭けをしました。
「もし温子が皇子を産んだら、神はまろを許したとしよう」
しかし生まれたのは皇女。基経はがっくりとして重態となっていきます。
この年、陽成上皇に、後年何かと話題になる元良(もとよし)親王が生まれています。

そして病状が進んだ基経は翌寛平3(891)年正月13日、56歳で亡くなるのでした。(続く)

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