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第43回 高子、皇子を産む。

貞観10(868)年2月、2年前に焼亡した応天門は再建されました。
そしてそれからまもなく、女御高子の懐妊が分かりました。

清和天皇は応天門の変以来、精神不安でその関係で次々と女性が入内していました。それを良房は止めずむしろ奨励していました。女色に溺れる孫を放置し逆に政治が思いのままできたからです。
高子もそれにぼちぼちと気づいてきていました。しかし清和天皇の要求を拒否する事はできません。それは実母・乙春を悲しませる事になるからです。

10月27日、皇太后・明子(あきらけいこ・清和天皇の生母)の四十の賀が行われました。鬱病に苦しむ明子でしたが、この時は出てきていたのでしょうか?前にも述べた通り『今昔物語』-それを引き継いだ現代の『応天の門』などでは淫乱に狂う女として描かれてしまっています。

そして12月16日、高子は染殿院で、第一皇子貞明(さだあきら)ー後の陽成天皇ーを産みました。高子は藤原氏の娘として重要な役割をついに果たしたのです。
翌閏12月28日、馬での遠出が趣味な左大臣源信は摂津の国で落馬し、59歳で亡くなってしまいました。これは後年、道真の怨霊のところで別の形で利用されます。(だいぶ先かなあ?)
ますます政治は65歳の良房の独壇場となります。

年が明けた貞観11年正月7日、業平は久々に正五位下になぜか昇進します。高子の皇子誕生のお祝いのお裾分けでしょうか?(笑)

そして2月1日、まだ生後1か月半の貞明親王は東宮に立てられます。良房一家の全盛は次代も続くわけです。
更に3月、東宮舎人(とねり)ー近侍し、警備・雑用に務める者ーに、業平の長男で20歳の棟梁(むねやな)が指名され、任じられました。明らかに高子の希望でしょうか?

棟梁は若い時の業平を彷彿とさせる美男でした。そしてやがては業平を召そうと高子は思っていました。「東宮の女御」(東宮母の女御の意)となった高子にはそれをする事くらい許されていました。(続く)


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