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第90回 譲位。そして藤原道雅の悲恋

道長との約束が成った三条天皇は、長和5(1016)年正月29日、譲位の式が行われ、右大臣顕光が取り仕切ろうとします。左大臣道長は73歳の顕光に不安を感じて婉曲に断りますが、顕光は押し切って引き受けます。
顕光は、式次第を書いた草紙(ノート)を持って臨みますが、結局間違いだらけで、実資は日記『小右記』に「失態をいちいち書いていては筆が擦り切れる」とまで書いています。
実は、新東宮敦明親王には顕光の次女延子が妃となっていて、皇子も生まれているので、顕光は嬉しくていつも以上に間違えてしまったのではないかと思われます。

道長は9歳の新帝後一条天皇の外祖父として念願の摂政に就任します。

それから8か月の9月、伊勢の斎宮であった16歳の当子内親王(三条上皇の皇女)が交代で還京します。ところが中の関白家の藤原道雅(25歳)が当子内親王の所に通っているのを知った三条上皇は大激怒。通雅は勅勘を被り、当子内親王は母親の元に預けられて逢う事を許されず、6年後に22歳の若さで亡くなりました。
道雅は別れさせられた後、『百人一首』に載っている悲恋の歌を詠みました。
「今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならで言ふよしもがな」
ー貴女の事を諦めますと、じかに会って言いたいーと言う悲しい歌です。今みたいに携帯があったらーと言うのは無粋ですね。

なぜこんなに三条上皇が嫌ったのかと言うと、3年前、道雅が理由は分かりませんが、敦明親王の従者に瀕死の重傷を負わせる暴力を振るった事が一番だと思います。三条上皇は不快だったのでしょう。それに落ち目の中の関白家の息子と結婚させる気もなかったのかも知れません。
結局、それは娘を不幸にし、死に追いやりました。母親など周囲は認めてあげてもと思っていたようですが・・・

ところで道雅には皇太后彰子が援助の手を差し伸べていました。敦成親王が東宮になった時、東宮権亮(ごんのすけ)に推薦しているのです。これは香子も見ていたと思います。先日、NHKの知恵泉という番組で「藤原彰子」を取り上げていて「気遣いの人」と紹介していました。その通りで父道長が追い落とした中の関白家の後継ぎに役職を与えていたのです。敦成親王が即位すると蔵人(なぜか8日で罷免されていますが)そして従三位に叙しています。

当子内親王との仲を引き裂かれた通雅は荒れ、また暴力事件を続け、1024年、花山法皇の皇女が殺害されたのも道雅ではないかという事で降格されています。
また賭博によく興じていたもののトラブルとなり、往来の真ん中で取っ組み合いの喧嘩をして周りに人々が多く見物した事もありました。もう彰子も庇いきれません。
結婚しましたが、やはりうまくいかなかったのか、妍子の女房大和の宣旨となっています。男の子2人は僧となり、娘は彰子の女房となっています。
世上では「荒(あれ)三位」とか「悪三位」と言われ、従三位から40年近く昇進できず、63歳で亡くなったという事でした。

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