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第133回 応徳4年の出来事(2)

正確には応徳4年は4月に寛治(かんじ)と改元されているので、今からの出来事は寛治元年の出来事となります。

7月7日、道長の最後の生き残り、尊子が85歳で亡くなります。高松方の二番目の姫(全体では五女)で、ただ一人皇室関係ではない源師房(具平親王の子)の妻となりましたが、優秀な息子、源俊房・顕房は兄弟で左右大臣となり、娘麗子は摂関家の師実の妻となり、後嗣師通を産んでいます。
また顕房の娘賢子は師実の養女となって、白河天皇の寵愛を受け、現在の堀河天皇を産みました。ですから尊子は、帝の曾祖母となった訳です。
世の人は結局、道長の娘たちの中で尊子が幸せで長生きしたのではないかと言いました。(長女彰子が権力を持っていましたが、24歳で未亡人となってしまったし)まるで『源氏物語』の明石の尼君の様でした。

7月9日には奥州の合戦が停止したとの連絡があります。いわゆる後三年の役です。(実際は4年かかっていましたが語呂が良かったから?)その前の前九年の役(これも実際には12年)で安倍氏を滅ぼすのに功があった清原氏ですが、今度は清原氏に内紛があり、それを陸奥守の源義家が介入して鎮め、最終的に安倍頼時の娘を母とする藤原清衡が奥州を支配する事になりました。また頼時の息子宗時は配流されていましたが生き残り、その子孫が安倍晋三さんだとされています。
この戦いで源義家(49歳)はかつて大江匡房(47歳)から学んだ「孫子」の中で、鳥の列が乱れている時、敵が隠れているというのを思い出して見事に勝利したという事です。

11月22日、関白頼通の正室であった隆姫が93歳で大往生しました。頼通の正室として子女を産む事を期待されましたが、彼女は不妊でした。しかし系譜を辿れば隆姫の母方の曽祖父は藤原氏によって左遷された源高明。曽祖父の無念を摂関家の没落によって結果的に晴らしたとも言えます。

そして12月26日、恩賞を請う源義家に対して「これは私闘であるから恩賞は出さない」という宣旨を出しました。この動きは、人気・勢力が伸びている源義家を白河上皇(35歳)が抑えるためと言われています。
私は授業で「この後、義家は私財を処分して、家来に分配し、感激した家来は生涯の忠誠を誓って、源氏は増々結束し勢力を大きくした」と感動しながら説明していました。が、最近それは朝廷に進上すべき貢物を横流ししたという説が浮上してきてちょっとガッカリ!(だいぶ後で納めたという説もあります)
そして翌年2月、義家は陸奥守を解任されるのでした。(続く)


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