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第24回 良房、太政大臣から摂政へ

斉衡(さいこう)から天安と改元された857年2月19日、良房(54歳)は右大臣からついに最高位の太政大臣に昇進します。
そして文徳天皇と娘の女御・明子が並ぶ春の宴の席で良房は喜びの歌を詠みます。
「年ふればよはひはおいぬしかはあれど 花をし見ればもの思ひもなし」-年月がたってしまったので、私は年をとってしまった。しかし美しい花を見ていると何の心配もないー
花は眼前の桜(陰暦2月中旬)とも、立派になった娘とも取れます。

後に、清少納言は中宮定子から歌を求められた時、とっさに、
「年ふればよはひはおいぬしかはあれど 君をし見ればもの思ひもなし」
と本歌取りをしてまた喝采を浴びています。(『枕草子』)

しかし良房が太政大臣になった日、9つ下の同母弟・良相(よしみ)が右大臣として追ってきます。良相もなかなかやり手で良房の手ごわいライバルとなりそうでした。

翌年8月、その文徳天皇は32歳の若さで崩御します。
9歳の惟仁親王が清和天皇として即位します。良房は後見として摂政になるのでした。
その陰で、文徳天皇の第一皇子であり、英明ながら東宮になれなかった惟喬親王(15歳)がいました。業平は妻の従弟にあたるこの不遇な親王に接近していく事になります。

11月14日、文徳天皇の女御の一人であった多賀幾子(たがきこ)-良相の娘ーが亡くなります。その四十九日が、翌年正月2日、山科の安祥(あんしょう)寺で行われる事になり、業平も出席します。(続く)

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