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第26回 シーグバーン研究室

飛行機がドイツ領の空を通過している時、今度は独りのリーゼはいつ強制させられるのかと不安に怯えていました。無事にコペンハーゲンに着き、甥のフリッシュが出迎えてくれました。二人は抱き合いました。
ボーアは研究室で出迎えました。「よくご無事で。2、3日休んでからストックホルムに出発しましょう」と優しく言いました。ボーアの研究室は若い科学者が多く楽しそうでした。しかし、リーゼはもしここに居る事ができたとしても自分が若い人の邪魔をするのではないかとも思いました。
まもなく1938年8月1日にコペンハーゲンを出発し、列車と船を乗り継いでリーゼはやっと目的地のストックホルムに着きました。

研究室長のマンネ・シーグバーンは最初こそ出迎えてくれましたが、その後は冷たい対応でした。シーグバーンはリーゼより10歳ほど若く、すでにノーベル賞を受賞していましたが、なぜかリーゼには距離を置きました。
小さな実験室だけは与えられたけれど、器具が全く揃っていませんでした。ベルリン大学で教授まで務めたリーゼには雑用しか与えられず、今まで当然についていた助手なども要求すると、
「ボーア先生の頼みで貴女を置いたのですよ」と冷たくあしらわれました。
シーグバーンはドイツ系で、実はユダヤ人差別、女性差別の強硬派でした。ボーアもコスターもそこまでとは知らなかったのです。
給料も教授時代に比べて極端に安く、リーゼは食事はたいてい固いパンをかじり、ブラックコーヒーだけを啜って耐えていました。
「これも運命なのかしら。好きなウランの研究はもうできないのかしら?」
スウェーデンの薄暗い空を見ながらリーゼは思ったのでした。(続く)

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