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第9回 桓武天皇の苦悩(4)

肥後から白亀がいくつも献上され、宝亀と改元してから、今度は伊勢斎宮に美雲が現れた瑞祥で天応と改元した781年ー4月3日に73歳の光仁天皇は45歳の皇太子・山部親王に譲位しました。桓武天皇の誕生です。
しかし同時に光仁天皇は皇太弟として32歳の早良(さわら)親王を指名しました。早良親王は当時仏門に入っていて固辞したのですが説得して還俗させました。

1つ目の疑問。なぜそうまでして早良親王を皇太弟にしたのか?すでに桓武天皇には8歳になる皇子がいたのに。
これは仏教勢力への忖度とも、また光仁天皇が、山部親王が亡き百川らと組んで皇位を取ろうとしたのが分かったからという説もあります。

しかし桓武天皇は政治に着手します。まず地方政治の乱れを正すために勘解由使(かげゆし)を派遣します。また蝦夷の征伐(いわゆる征夷)に力を入れます。
その年12月、光仁上皇は崩御しました。
2つ目の疑問として、32歳の早良親王はこれ以降も35歳で亡くなるまで妃の記録がないのです。僧籍だったので今までは仕方ないですが、結婚というものをしたくなかったのでしょうか?

桓武天皇は何人か有能な公卿に目をかけます。亡き百川の甥で同い年の種継というのがいて、参議・中納言と昇進していきます。汚れ役をずっとやってくれた百川で、種継にもそれを期待したでしょうか?

年号は延暦と改まり、延暦3(784)年、桓武天皇はついに温めてきた思いを決行します。それは井上内親王・他戸親王の怨霊がいる平城京からの遷都です。実行役には種継を起用しました。
種継は母秦氏の根拠地山背国の長岡に新京を定め着手します。

しかし翌年9月、種継は射殺されてしまいます。享年49.
殺害したのは大伴継人(つぐと。孫に後の回で出てくる伴善男がいます)など大伴氏が中心。その理由は遷都反対派、とか前月に東北で亡くなった大伴家持の仇をうつためとかいろいろあります。更に調べれば調べるほど真逆の説も出てきて、例えば桓武天皇は実は権力を持ち過ぎた種継を亡き者にしようとして、わざと1ヶ月長岡京を留守にしていたとか、もう訳ワカメ!!

そして家持が皇太弟早良親王にも仕えていたし、親王も遷都反対派(賛成していたという説もあり)だったので、関係しているという事で親王は皇太弟を廃され、乙訓寺に捕われます。
ところが早良親王は潔白を主張。絶食に入ります(これも桓武天皇がわざと食事を与えなかったという説もあり・・・)。
更に淡路島へ流罪という事で護送の途中、10日も飲食なしだったので親王は
亡くなってしまいます。享年35。
新しい皇太子にはもちろん桓武天皇の皇子がなりました。考えて見るとこれが一番の目的だったという感じもしてきます。

それから天変地異。そして桓武天皇の周辺にも凶事が頻発します。
新皇太子・小殿(おて)親王は病となり、安殿(あて)と改名するものの効果がありません。そして妃で百川の娘・旅子(淳和の母)が30歳、百川の姪。乙牟婁(平城・嵯峨の母)が31歳。そして桓武天皇の母高野新笠も亡くなります。(新笠は早良親王の母でもあるのですが・・・)

桓武天皇は流した淡路島の墳墓の近くの常隆(じょうりゅう)寺を増築し勅願寺とし、保護します。墳墓も立派にしますが、効果がないと遺体を生まれ故郷の大和に改葬します。そして後に「崇道(すどう)天皇」の尊称を贈り、天皇と同じ扱いとします。後の崇徳天皇の状況と似てますね。

そしてついに桓武天皇は二度目の遷都を決意します。早良親王の怨霊が跋扈する長岡京には居られません。二度の遷都とも表向きは「人心の一新」とか「仏教勢力との訣別」(これも今では教科書に載っていますが、奈良の寺社に対して言えたのか?)としています。

徹底的に風水が調べられ、794年10月、山背を山城と改め「平安京」に遷都します。どなたの「平安」か分かりますよね。
それから12年後、征夷も成功して桓武天皇は70歳で崩御します。怨霊にはひどく怯えますが、殺害した蝦夷の民衆(恐らく何千何万)には後悔の念はないみたいです。
つい先日、イギリスのヘンリー王子がアフガニスタン従軍時に25人殺害したのを「チェスの駒のようだ」と例えたのが分かり、物議となっています。
偉大な功績の光と、肉親の怨霊に怯える影の部分。その両方を桓武天皇は持っていると思います。

かつて日曜美術館で「怨霊を撃退するために」造られた平安初期の仏像を観ました。子供の顔なのですが、眼光がほんとに鋭く、怨霊も逃げ出してしまいそうな目つきでした。本当に怨霊というものを信じていたんですね。


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