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美味いもん食え

社会人1年目の春、私は人生のどん底にいた。

就職活動に惨敗し、地元の中規模の製造業しか内定だけ。
レベルの差は無いと思ってた大学の友人たちは大手ばかりで、明確に差を付けられたように感じていた。
しかも、ついこの間発表された配属先は、希望していた事務職ではなく技術職だ。

(どん底だ…間違いなく、私は今人生のどん底にいる…)

実力を磨く努力もせず、しかしプライドだけは誰よりも高い私は、遅い春に咲き乱れる桜の美しさすら恨めしい日々を過ごしていた。

配属先に挨拶に行く日もそれは変わらず、マリアナ海溝より深く暗く沈んだ心を引きずって玄関をくぐり、俯きながらぼそぼそと自己紹介を小声で言う。そんな、不貞腐れた私の前に、その人は表れた。
40代手前と若いのに総白髪のその男性は、目元に笑い皺が深く刻まれていて、それがとても印象的だった。

「この会社はよ、ついこの間まで本社の下請けだったんだ。それが1ヶ月前に丸ごと本社に吸収されてよ。
俺も新人みたいなもんだから、同期だな!」

わはは、とたっぷりと貫禄のあるお腹を揺するその人に、後に大変お世話になる事など思いもしない当時の私は、「はぁ」と生返事をして曖昧に頷くだけだった。



≪新人の言い訳≫

わたしの上司になった、健一という名のその人は、おおらかで、よく笑う柔和な雰囲気を常に纏う人だった。しかし、彼が誰よりも仕事ができるのは、日の浅い私でもすぐに分かった。

クレームがあれば人柄で丸め込み、調子の悪い機械はその手で元に戻す。
挙げ句の果てに、自宅の壊れた小型ストーブすら修理してしまう。

『一家に一台欲しい男』

そう称賛され、社内でも引っ張りだこの凄い人。
そんな、デキる男の健一さんでも、1つだけ欠点があった。

教え方が下手

それはもう、壊滅的に下手だった。
「ここをこーして、こーすりゃいーんだよ」とだけ言って去った時の心細さと言ったら。

私はついこの間まで文系の学部にいた人間で、何の前知識も無い。
初日にこれって、かなりハードモードだ。

いやいや、でも、もしかしたら、自分が思ってるより簡単なのかな。
何とかなるのか?

そう思い取り掛かるが、やはり難解で何が何だか分からない。
文字通り手探りで部品を手に取り、ようやく形らしきものができたのは定時間際になっていた。

8時間近くかかって、できたのはたったの1個。
しかも、それはあっさりと『何だこりゃ』と一蹴される程酷い出来だった。

次の日も同じことの繰り返し。
かかる時間は変わっても、私が作るのは「なんだこりゃ」と言われるもの。

何の進展もない事に日に日に不満が溜まってくる。
元来プライドが高く不躾な私は、その日もすぐに席を立とうとする健一さんに、「教え方が雑過ぎる」と不満をまくし立てた。

「どこが分かんねーんだよ。言ってみろ。教えるから」

新人の生意気な言いがかりは気にも止めず、首を傾げる健一さんに続く言葉が無い。

そう。確かにその通りだ。
分からない所は分からない、と言わなければならない。
具体的に、指示を仰がねばならない。

でも、
でも・・・・・


「………何が分からないかが、分からないんです………」

ようやく絞り出せたのは、情けなさ過ぎる言葉。
典型的な仕事ができない新人の言い訳だった。

そりゃ、会社落ちるよ。
落ちまくるよ。
何にもできないんだから。

自分の矮小さにようやく気付いた私は、ああ。とんでもない事をしてしまった、と肩を落とした。

それなのに、健一さんは呆れるでも怒るでもなく、
「お。そうか」と、あっけらかんと返してくるだけだった。

その日から、健一さんはあっさりと私への指導を止めた。
代わりに、私より少し上の先輩に任せ、自分は最終確認のみ行うようになった。
それは、何かと席を外すことが多い健一さんにとっても、私にも良かった。

付いてくれた先輩もやはり元々この会社に勤めており、健一さんとは兄弟のように仲のいい人だったが、教え方はとても丁寧だった。
その人のおかげで何もできない私でも、1か月経つ頃には何が分からないか具体的に理解できるまでに成長したのだった。



≪大名行列の日≫ 

相変わらず大学時代の友人の近況を聞けば落ち込みはしたが、次から次へと覚える事があり、少しずつできる事が増えていくのは正直楽しかった。
マリアナ海溝ぐらい深く沈んだ心はすっかり浮上し、毎日忙しく過ごしていた。

会話をしながらでも簡単な仕事は1人でもこなせるようになった頃、
本社から突如社長が視察に訪れる旨が通告された。

「いっぱい人が来るの?」
「綺麗にしとかなきゃね」

あっという間に社内はその話題で持ちきりになり、そわそわした雰囲気が広がった。
しかし健一さんは、そんな雰囲気など気にもせず、「いつも通りにしときゃいーんだよ」とお菓子を食べて、経理のおばちゃんに早速汚すなと叱られていた。


いつも通り。

そうしたいのは山々だが、こんな大名行列のようにぞろぞろ人が来るなんて。
大勢の年配の男性が、私の仕事ぶりに注視し何事か囁く。

できる限り仕事に集中したが、冷や汗が背中に伝う。
そんな私に対して健一さんは、ちょうど行列からは見えない位置を陣取って、巧妙に気配を隠していた。

(ずるい・・・・)

いつもなら、常に騒ぎながら仕事しているくせに。
内心抗議の声を上げながら、長い長い視察の時間が過ぎるのを待った。


多分、実際は30分程度だったと思う。
けれど、2時間にも3時間にも感じる程長く感じたのは私だけではなかったようで、一団が去ると社内には明らかにホッとした空気が広がった。

私も先輩も次第にいつもの調子を取り戻し、今日は残業無しで帰りましょう、なんて軽口を叩いていると、事務所に呼び出されていた健一さんがふらりと戻ってきた。

「あ!さっきの酷いじゃないですかー」

ニヤニヤ笑って、先ほどの所業を指摘すれば、大きな体を揺すって言い訳する。そんな、いつも通りの反応が返ってくると思っていたからだ。

だが健一さんは珍しく神妙な顔をし、私だけを手招きした。



≪いつも通りに≫

連れ出された先は、滅多に人通りが無い倉庫の入口だった。
昼でも薄暗いそこで立ち止まった健一さんは、なかなか話そうとしない。
痺れを切らして私が要件を問えば、
「うん。あのな・・・・」と、小さな声で、しかも歯切れが悪く話始める。

「さっきな、視察の後で本社の奴に呼び出されてなぁ・・・・。
お前が仕事できてないって指摘されて、ちゃんと指導するよう言われちまったんだ」

「そんな・・・・」

さっと、血の気が引くのが分かる。

そんな、そんな事って。

何も分からない状況から、もう簡単な仕事ならできるようになったのに。
今日だって、緊張はしたけど決して失敗はしてない。

「なにが・・・・。
なにが、悪かったんですか?
私、いつも通りにできてました!!
できてた・・・はずです!」

足元が。
今までの頑張り、経験で築いた自信で固まった足元が、ぐらぐら揺れる。

お前なんて何の役にも立たないと、正式に印を押された気がした。

悔しい。
悔しくて、悲しくて、虚しくて、胸が締め付けられる。
喉の奥が痛くなる。

しかし、健一さんの次の言葉はできない新人を叱責するものでは無かった。


「お前は、いつも通りだったよ

ただ穏やかに健一さんは言った。

「お前は、いつも通り仕事してた。悪いとこなんて、何も無かった。
ただなぁ。ああいう視察って場所で、何か言わなきゃ気が済まねぇ奴っているんだよ。特に、俺らこの前まで下請けだったからな。
そんで、お前は新人だし、目ぇ付けられたんだよなぁ。難癖付けやすかったんだ」

慰めの優しい嘘。
そんな事できるタイプじゃ無い。
健一さんの目には、私はそう映ってたんだ。
まだ簡単なものだけできないけれど、いつも通りの私の姿が。

でも、でも納得いかない。

若いから
女だから
新人だから

そんな上っ面で、できるものもできないと否定されるなんて。
そんな、理不尽な事って、無い。

「私、これからどうすればいいんですか・・・?どうすれば、この先、そんな酷いこと言われなくて済むようになるんですか?」

そんな事、健一さんだって分かるはずがないのに。
社会人1年目の私は、健一さんがこの世の何でも知ってて解決できると思っていた。
クレーム対応や、機械の修理みたいに、簡単に答えを知ってると、そう信じていた。

しかしながら、青臭すぎる私の問いに、健一さんは見事に答えてみせた。

「美味いもん食え」

断言した。
それはもう、自信満々だった。

「美味いもん腹一杯食え。そんで忘れろ。
そうだ。今日駅前の中華屋連れてってやる。あそこのレタスチャーハン、めちゃめちゃ美味いんだ」

わはは、とたっぷりと貫禄のあるお腹を揺すって、呆気にとられる私を余所に、健一さんはさっさと予約の電話を始めた。



≪懐かしく、羨ましいあの日々≫ 

健一さんの言う通り、その中華屋は本当に美味しかった。
大声で本社の人間の悪口で散々盛り上がり、胃が満たされる頃には本当に忘れてた。

(ご飯でこんなに癒されるなんて知らなかった)
杏仁豆腐の甘さが沁みた。

それから都度、健一さんは私を色んな店に連れてってくれた。

「美味いもん食いに行くぞ」と言われた先で乾杯するお酒は常にほろ苦かった。けれど、最後には一緒になって笑った。

数年して部署移動になり、健一さんは上司から外れたけど、顔を見せに行けば年々大きくなるお腹を揺すって歓迎してくれた。

もうあの頃から随分経って、会社も退職して、健一さんとも年賀状のやりとりだけになってしまったけど。
社会人1年目の、健一さんに教え導いてもらったあの頃に、もし帰れたら。

好きなだけ色んな話をして、乾杯して、いっぱい食べて、人目も気にせず豪快に笑うのに。

今はもう、懐かしくも羨ましく、そんな日々を思い返すだけだ。

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