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七夕坂紀行

2024.4.9、公式が秘封倶楽部最新作「七夕坂夢幻能」を発表。
8年ぶりの秘封作品ということもありインターネット上では大きな衝撃が走った。
メリーの帽子のリボンや、ジャケット絵の構図に阿鼻叫喚する中、収録曲から「七夕坂」の存在に着目する人達が表れ始める。
ネット検索をしても全くヒットしない、わずかな著書でのみ語られるフォークロア、謎にリンクが切れている赤土町観光協会のページといった要素が惹きつけたのかネット上では日がな七夕坂についての情報が飛び交うこととなっていた。
例大祭の原稿に喘ぐ自分もその例に漏れず七夕坂の熱にあてられた者達の一人である。
「このままじゃ原稿に身が入らない」
丁度週末には常陸太田にある曾祖母の家に親族で集まり味噌を仕込む恒例行事があった。ついでに米10Kgを貰う予定も。
渡りに船、七夕坂に味噌作りとこの上ない好機だった。この熱を落ち着かせるためにも七夕坂の現地調査を敢行することにした。
その記録を備忘録として残す。


はじめに読んでほしいこと

廃道探索についての危険性

この記事を「おっ、七夕坂だ」と読み始める時点で現在の赤土町にある七夕坂が廃道、もしくは山中の里道であることは既に知っている方が多いと思う。
廃道探索は究極の自己責任の道であり、言わずもがな廃墟廃道廃線跡に無断で立ち入ることは軽犯罪法に違反する。
それに一度山に入れば崖や落石といった危険は当たり前で、熊やイノシシ、野犬に有毒植物といった動植物により生命の危機を伴うことも起こりうる。
一人、もとい集団であろうともまとめて危機に陥った際は誰も助けない。
今回の七夕坂でそんなことが起ころうものなら個人だけでなく地域の方々やZUNさんにも多大な迷惑をかけることになる。

東方Projectには聖地巡礼と称してテーマやモチーフとなった土地を観光する文化が存在する。
そういった町中の観光地と同じような感覚で廃道の山歩きをすることは絶対にあってはならない。
山岳経験が豊富であろうとも、装備を整えず山入りすることはそもそも登山への侮辱である。(登山経験ある人ならそんなことはしないと思うが)
繰り返すが、廃道探索とは自己責任である。
先に明言しておくと、この記事は七夕坂入山を推奨するものではないし、この記事を参考にして行動を起こし、いかなる損害を受けた場合でも自分は責任を負いません。

一人の東方オタクとして

本文に移る前に個人的に読んでほしいことを私見として述べる。
まず、自分はコンテンツの聖地巡礼文化は好きだしとても良いことだと思っている。
ZUNというフィルターを通して東方の世界観に反映されてるとはいえ、その元ネタに興味を持ったということはその文化や歴史自体に着目していることに等しい。

自分はどちらかというと科学の徒であるので神や妖怪といった存在は99.9%存在しないと思っているが、それの元となった現象、あるいは人や集団は存在したかもと思っているし、伝承や民話といったものはその土地に住んでいた者達の歴史書に他ならない。
信仰や祭事を行う人々の行動自体はリアルに存在するものであるし、長い年月を受け継がれてきたそれらには作法を持ってして最大限の敬意を示すべきだと考えている。
ゆえに、か細い伝承であれど忘れ去られてしまうことはとても悲しい。
加えて、神や妖怪がいたらいいなと思う気持ちを忘れてしまうことも同じく心が貧しいように感じられ、とても虚しい。

「聖地」と称された場所が必ずしも三方良しになるとは限らない。
場所が有名になり、訪れる人が増えるにつれて増長する集団心理に身を任せて蛮行や不敬を働く人が発生することもある。
そんなことがあっては決していけないのだ。

また、逆に過度に清廉潔白を求めてはいけないとも思っている。
特にインターネットに長く触れ知識経験豊富な識者の中には上記の事例と同様になることを酷く恐れる人もいる。
その懸念は正しく、ある程度は持つべきであるが、気持ちが行き過ぎてしまい当事者でもないのにインターネットイタコ芸をするなどして二極で物を語るのは良いこととは言えない。水が清すぎても魚は住めないし、三方をコンクリートでガチガチに固められた直線の道を歩くのはつまらないのだ。

つまり自分が何を言いたいかというと
・七夕坂を、8月10日の世田谷某邸宅前の様にしてほしくない
・七夕坂を、除夜の鐘を取り上げられた大晦日のお寺の様にしてほしくない
ということです。
この考えが100%正しいとは自分でも思っていませんが、各自が思う敬意と謙虚さをもって見聞を深めるのが良いと思いますね。
金砂の土地は目を見張る土着の信仰の深さがあり、赤土の蕎麦は絶品ですよ。

フィールドワークと人文科学の在り方については度々ネット上で議論が巻き起こっており、その線引きについては様々な意見があるが、この記事では議論しないことにする。
人によって答えは違うし、そうそう結論は出ないと思う。
ただ、ひとつ確かなのは現地の方々に辟易されてしまうことがあれば確実に非があるのはこちらということだ。
我々は法人や行政の令で動いてるわけではないし、ましてや余所者である。

ひとつ我儘なことを言うのであれば、これから七夕坂の峠道に行こうと考えている方がいれば、この記事を読んで満足し、せめて看板前で引き返して蕎麦を食べに行ってくれたらと思う。
昨今のご時世、1の善評に対しての1の悪評の威力というのは年々上がっているのだ。


この先、本文が始まります。
「廃道探索なんてしてんじゃねーよ!」と思われる方はブラウザバックを押すことを推奨いたします。そこまでして記事を読むのに時間を取らせたくはないですしね。








事前机上調査

3つの七夕坂"疑定地"

新作発表から二日の時点で(二日!?)ネット上では七夕坂の所在について3つの説が提唱されていた。
随時情報の更新が行われるため現在の定説とは異なる場合があるが、あえて当時の説をそのまま述べる。

①赤土七夕坂説
・赤土町の「赤土集会所」付近に存在。
・赤土町観光協会のページから発見され、最初に有力視されていた場所。
・しかしソースがその観光協会のものしかなく、裏付けに欠ける。
・赤土町は後述する山田村の範囲外であり、伝承の存在が確認できない。

②松平七夕坂説
・柳田国男著『禁忌習俗語彙』には坂の所在が「常陸の久慈郡山田村」に存在すると書かれていることから、これを満たす条件の場所から逆引きして提唱された説。
・『茨城方言民俗語辞典』には七夕坂の所在が「久慈郡水府村」とあるが、水府村は山田村と諸所の自治体を合併して発足した村なので矛盾はない。
・「坂では東西金砂神社の祭礼で囃子の音を止める」という情報をもとに聞き込みを行った人によると、『元金砂神社の鎮座する丘の麓、旧山田小学校(現すいふこども園)前の坂道がそうでないか。』という情報が得られたため浮上した、伝承の地という観点から見た場合の七夕坂疑定地。
・西金砂神社の大祭礼及び小祭礼の動画を調べた結果、和田と松平の境であることが認められた。
・しかし七夕坂という名称で呼ばれている情報が存在しない。

③県道29号七夕坂説
・もうさ、赤土から松平までの峠道をひっくるめて全部七夕坂ってことにしようぜという突飛な説。しかし当時は真面目に議論されていた。

以上の3つが当時の七夕坂の所在が疑われる場所であった。
文献やストリートビュー等でインターネット集合知をもってしてあらかた調べた結果、どれも決定打に欠けるという状況になっていた。
新作情報公開から初めての週末、そのタイミングで現地調査を行うことを表明する人も増え始め、ネット上では「自分は松平に行く」「自分は常陸太田の図書館に向かってみる」といった意思表明も散見されていた。
その最中、自分はどこに向かおうか考えていた。

見たところ、図書館といった施設に取材に向かう人は複数確認できたため、自分が行っても余計になるだけだろう。司書さんに迷惑をかけてしまうかもしれない。
松平の町中はレンタサイクルを利用して細かい路地も含めて調べるそうな。
赤土の看板前や西金砂神社は自分が行かなくとも、観光感覚で訪れる人がネット上に写真をあげてくれるだろう。

そして自分が週末に向かうことを決意した場所は─────


未確認地上幻想地域

赤土七夕坂は発表翌日に現地調査した方により、入口付近が深い藪に覆われて先に進めないことが判明していた。
しかも山内への入口が複数存在するらしく、どれが七夕坂かもわからない状況である。
GoogleMapには道が表示されず、国土地理院の地図で道が見つかったと思いきや実地調査と照らし合わせるとどうもその道も違うそうな。

そこで自分の目的が決定した。
七夕坂の現存を確認し踏破、及び山内路の調査である。
看板の説明書きに倣えば、「太田に通じる重要な道であった」「急な坂ともあり、道中に馬力神の石塔が存在する」らしい
しかしそれを認められる情報はネット上を探しても存在しない。それを確かめるためには実地調査するより他なかった。


深緑に隠された山体

深い山の中って人間にとっては異界なんですよね。
それは衛星写真で世界中見られる今になっても
深い森に包まれた山の中は異界のままなのです

東方虹龍洞 Music Room 虹霓の音楽室 楽曲コメント より引用

自分の実家である東方虹龍洞での楽曲コメントをまさに真の意味で痛感している。
GoogleMapをはじめとした衛星写真は深緑の山中を調べる際は無力である。
しかし相手は渡る者の途絶えた山道。下調べを行わず突撃するなど自滅行為に等しい。
そこでまずは国土地理院の提供する地理院地図を確認してみる。

地理院地図で見た赤土七夕坂

国土地理院発行の地図には山中を通る破線が認められる。
この3つの破線のうち、最も北側を通る破線が七夕坂であると考えられていたが、先行実地調査の結果どうも違いそうだという説が浮上した。
と言うのも、赤土観光協会によって建てられた看板が設置されている場所が図中上部の赤丸のあたりに存在しているらしい。
ちなみに下部の赤丸は県道との接続路と考えられる場所である。こちらはGogleMapのストリートビューでも撮影時期を変えて緑の薄い時期にすれば入口が見ることができる。


看板。以前はこの写真すらインターネットには存在しなかった。

実地調査結果を見るに、地理院地図が示す道はどうも七夕坂とは違いそうだ。う~む、これは参ったぞと。
しかしその調査によるとこの看板の先にも道が存在し、県道からもアクセスできるというそうな。
ここで一つの道が浮上する。


もしかして地理院地図にも記載されていない道が存在する?


その後もネットの集合知を見ていると、地籍図にどうやら看板から続いていると思しき道が記載されているらしい。地籍図を調べられるサイトに行き、赤土の区域を調べてみると─────

Mapple法務局地図ビューアより引用

確かに看板の位置から伸びていると思しき道が認められる。
地番を確認すると確かに「道」の分類に属している。
ひょっとしてこれが七夕坂なのでは?思い、机上調査の方向性をこの道に絞り込んでいくことにした。

しばらくするとネットの情報により、「過去の空中写真にそれらしきものが確認できる」との情報があった。



地上と過去を繋ぐ山道

地図・空中写真閲覧サービスを利用し、過去の年代に設定してこの地域を映した写真が次の写真である。

1975年撮影の空中写真

これを拡大すると確かに道と思しきものが微かに見える
拡大してわかりやすくペンでなぞったのが次の写真である。

地籍図と照らし合わせて作成

①は七夕坂であると考えられる山道
②、③は先行実地調査によって入山できそうな別の場所、および地理院地図記載の道。

当時は今よりまだ里山の自然を御していられたのか、もしくは落葉を終えた時期だったためなのか今よりも緑が大分薄くなり、その下には現代の衛星写真からでは見ることのできない道筋が認められた。

ここでさらに決定打となる情報が入り込む。
なんとヤマレコ(登山記録を共有するアプリ)でこの道を通る山行記録が存在していることが判明した。

常陸太田市松平から、未踏の道を選んで鷹取山へ - 2018年12月24日 [登山・山行記録]-ヤマレコ (yamareco.com)


上記サイトより引用

山行の最中、確かに今現在検討している七夕坂の山道を通過しているではないか!
サイトに飛んで写真を見てみると一枚だけこの区間で取られたであろう写真も認められる。
この方は松平から西金砂神社までの距離を北上し、その途中にこの七夕坂を通過したようである。
ルートを見たところ、いわゆる七夕坂看板前まで行かずに途中の県道接続路から抜けたようであるが、そこに至るまでの道は確かに七夕坂の山道である。
この山行記録は自分の中で決定打となり、当日探索するルートも確定した。
その後は地形図をDLして週末まで熟読し、来る探索日に備えて例大祭の原稿をしつつ準備をしていった。


七夕坂現地調査

オタク達の起床

4/13 土曜日の朝
寝ぼけながら朝食をとりながら麦飯を握りながら装備確認しながら朝仕度を終え、常陸太田に向けて出発する。
ここ数日は快晴が続き、当日も雲一つない天気であった。

これは空模様は同じであれど別の日時の写真

山間部ともなれば狭路が多くなる。
また、気温や荷物量を鑑みても車よりバイクで行く方が得策であると判断し、当日は春の空気を直に受けながら赤土町へと向かった。
しばし走らせたのち、9時頃に赤土集会所前に現着。
バイクを路肩に留めて現地に向かう。
その際にXを眺めていると既に現地入りしてる人の表明が散見された。しかし赤土の現場にはまだこの時間は誰もいなかった。
新作発表から初めての週末。しかも今回の七夕坂の熱狂ぶりは異常である。
訪問者の数も不安になる程多いと思っていたため、いまだ誰も来ていないことに少し驚きつつも現場を見て回った。

昨今の加速化する人々の生活様式に反するかのように、このあたり一帯はまさしく時が緩やかに流れているようだった。
人一人見当たらないのもあるが、聞こえてくる音全てが自然由来のものである。
早春に練習を終え上手に鳴けるようになったウグイス。
シジュウカラにスズメやヤマガラといった慣れ親しんだ鳥はもちろん、カケスやミソサザイといった鳥達のさえずりが森林の存在を耳で伝えてくる。
春の花畑ではキジが朝のランニングをし、一足先に水を入れた田んぼではアオサギが案山子のように立っていた。

朝という時間帯もあるが、これほどのどかな場所は中々無い。
なんならカメラを担いでバードウォッチングに予定変更したいほどだった。
しかし今回はこらえ、山に入る道を視察する。
事前に調べるべき場所の目星はつけていた。

以下、図中の入口を①②③と称する。

七夕坂入口の看板を横目で確認し、奥に進む。
今は耕作放棄地となった①と②の間に見られる田んぼからの水であろう流水がすぐ側を流れていく。
実地調査にて判明したのが上記の図中②の入口、地籍図によると東に向けて入口が開いていると思っていたが、実際には③と同じく南を向いていた。

②の入口を西側から。土手を大きく切り拓いているのがわかる。

その後少し進むと③の入口を発見する。

③を正面から。向かって右側に二人ほど収まりそうな穴がある。

他にも山の中に入れそうなちょっとした道ともとれる狭路はあったが、目立ってわかりやすく存在した入口はこれだけであった。
確認を終え、①の入口である七夕坂の看板前まで戻る。
気が付くと、狩りをしているのであろう猫が歩いていた。
狩りの邪魔にならないよう、気持ち遠回りをして歩きぬけた。



春の小径に藪の影

靴紐を結びなおし、七夕坂入口を見据える。
気が付けば先刻の猫がすぐ後ろまで来ていた。

「竹に虎」ならぬ「篠竹にキジトラ」


今回は場所が場所であるだけに体色が黒でなくてよかったと思う。尻尾もちゃんと一本だった。マヨヒガに遭難して死体を持ち去られたらたまったものではない。
そして猫は縁起の良さそうな構図を見せてくれた後、踵を返してオオイヌノフグリを踏みながらネコノオオフグリを見せつけて藪の中に消えていった。

吉兆だらけだった野良猫から見送りを貰い、いざ七夕坂に入る。
先行調査にあった通り、少し進むと藪の密度が上がってくる。

篠竹地帯

しかし、救いというべきだったのは藪を構成するものが篠竹だったことである。
これが希少な植物だったり、可憐な花をつけた低木だったら植生保護の観点からキッパリ帰宅していただろう。
メダケ(雌竹)──自分は篠竹と聞いて育ったこれは、葛と並んで人口低下する田舎を悩ます植物である。
真竹や孟宗竹よりも柔軟な繊維は古来より窓にかけるすだれや漁具として加工され、人間と密接に暮らしてきた。
その利便性や加工難易度から、農村では田畑の脇に隊列を組んだかのように整列して生えていることが多い。
しかしプラスチックに需要を追われ、管理する農家の減少によりそのシビリアンコントロールを失った隊列はアナーキーに進軍を開始する。
人間の寵愛を受けていた時代から一転、いまや検索欄に名前を打ち込めば「駆除」だの「枯らす」だのといった言葉が並ぶようになってしまった。
全人類、篠笛を一本持ってみてはいかがだろうか?

全国的に広がる篠竹、それはこの七夕坂でも同じようで両サイドに壁として生えるよう整列させられた中から、自由を求める者達が道の上にまで進軍している。上記の写真はまだいい方で、さらに奥に進むともはや壁である。
しかしSTGで鍛えた目は抜け道の発見をサポートしてくれる。
ありがとう東方Project(STG)。
願わくば自身の身体の当たり判定も、もう少し細くなりたい。

育った篠竹は折れと言われて折る方が難しく、随一の弾性力はかき分けた後も鞭として襲い掛かってくる。
それでもなんとか潜りぬけると道が急に開けてくる。


奥に開けた空間が見える

結論から言うと、ここは県道からアクセスできる場所に通じていた。
一旦山道から降りて県道まで降りてみる


県道からのアクセスポイント

県道に通じていることを確認し、再び道に戻る。
ここ一帯は比較的綺麗にしてあり、道は整っていて落ち葉もあまり無い。
なぜここだけ?と思ったが、その答えは少し進むとすぐに解った。
地元の方々のものであろう、墓地がひっそりと佇んでいるのだ。
あまりジロジロ見ては失礼にあたるので軽く遠方から流し見したほどだが、手入れの行き届いた状態が見て取れ、時々今でも墓参りに来られる方がいらっしゃるのだろうと考えられる。

つまりよそ者である我々にとっては最も敬意を払い、配慮しなければならない場所である。この場所ではより一層失礼の無いようにする必要がある。
というかむしろ入らないのが一番穏便ですらある。

お墓の横をいそいそと抜け、先に進むと行き止まりとなった。
道が消失しているのではなく元から存在しないような、そんな雰囲気であった。
ここで地形図を見直すと、推定路は尾根を登るようにして続いているらしいが、この行き止まりを無理やり潜り抜けてもその先は谷へ続いているようだった。
そこで周りを見渡すと向かって左側にある壁だと思っていたものが、奥に行くにつれ高さが大きくなっていることに気が付いた。
少し道を戻ると見落としていたが、向かって左側に脇道に逸れる道が続いているのを発見した。


分岐点、右側に行くとお墓。


この分岐を左に進むと再び篠竹地帯が現れる。


難易度UP

こちらは本当に通る人がいないのであろう、入口側の篠竹地帯よりも濃く、さらに木の枝が散乱していて藪漕ぎの難易度としては格段に上がっていた。
森林が近いためか落ち葉が堆積していて足元も若干危うい。
机上調査の通りなら往年は多くの人や馬が通る重要な道であったはずだが、自然の力というものはいとも簡単にそれを覆い隠してしまう。
しかしそれでも前に進んでいく。
こっちは濃い篠竹地帯が入口側より長く続いている気がする。
藪漕ぎ装備でない人は引き返すべき場所なのだろう。
それにこの先、夏が近づいてくるにつれて緑はさらに濃くなることが容易に想像できる。
もはや歩きぬけるというより潜り抜けるといった表現の方が正しいかもしれない。
そうこうしているうちに光が見えてきた。

藪を抜けると一気に開けたと同時に雰囲気が山道のそれに変わった。
あの篠竹地帯が山と人里との境界なのかもしれない。
先を見据えると平坦に整えられた道の跡が認められる。
道上に植物の芽吹きはあるものの、まだどれも小さく障害にはならなそうであった。
勾配もより一層強くなっている。
いわば峠道としての七夕坂はここから始まるのだろうと感じられた。




閉ざせし山の通い路

篠竹地帯を抜けて暫くは開けた道が続いていたものの、少し歩くと速やかに道幅が狭まっていった。
ふと、路肩に目をやるとその理由が推測できた。

黄土色をした切り通しの石壁

人の往来や馬車を通すための道幅の確保のためか、切り通されたように石壁が剝き出しになっている様子が見て取れたのである。
この光景が見られたのは尾根筋の幅が狭い道の上だったのでおそらくそうであろう。
長い年月を経て風化が進んだのか表面は非常に脆く、少し指で触れただけでボロボロと崩れてしまった。
本当に誰も通らないのだろう。小学生男子を放したら1時間もあればきっと全部ツルツルになる気がする。

周りの木々を見ていると殆どが広葉樹林だった。こんなにも人里に近い峠道なのに植林がされていないのはなぜだろうか。
戦後の植林ブームは里山はおろか、林鉄を無理やり引いてでも深山に杉を植えたほどなのに、この峠道では全く杉が見られない。
理由はわからないが、早春のこの時期はまだ葉をつける木は無く、それがかえって峠道に陽光と風を通していた。


下に見える道

ふと谷底側を見るといつの間にか道を思しき平らな面が見て取れた。
分岐がいつあったのかわからないが、里山ということもあって林業なり栽培なりのために引いた道かもしれない。
地理院地図にすら書かれない道があるくらいなのだから、里山管理のための道もきっとあるのだろう。

勾配も段々ときつくなってくる中、荒れた道を象徴するかのように道をふさぐものが現れた。

デカ倒木

立派な倒木が道を完全に横切っていた。
土砂崩れや崖崩落の様な壊滅的に通れなくなっているわけではなかったのでよかった。
これを、画像で言うと右の方に崖スレスレで抜けていく。
倒木をよく見ると妖精が通った後かのようにキノコが生えていた。
いや、一列に生えていたのでもしかしたら変形菌だったかもしれない。

倒木を超えて暫く歩くと道端にそれまでには見られなかった人工物を見つけた。

国土調査の杭

なんと国土調査の刻印が入れられた杭を見つけることができた。
つまりここにも地籍調査のために行政が立ち入ったということが解る。
だったら地理院地図にも道を描いてくれてもいいじゃないか……

そんなことを思いながら歩いていたら分岐が現れた。

向きに着目
つづら折りを経て上に上がる道

そのまま先に進む道と上に登っていく道の二つに分かれていた。
道の雰囲気的には直進する方が正しいと感じていたが、念のためここで地籍図を確認する。

地籍図に見えるつづら折り

GPSの位置と照らし合わせてもここは地籍図に見られた特徴的なつづら折りの場所だと思われる。
しかし地籍図には直進する方の道は描かれていなかった。
が、進路は標高をそのままに進んでいることと、方角的に進路方面に素直なところ、および地籍図においてつづら折りを越えた先の道が不自然にカクンと曲がっていることから「もしかして直進ルートもあるのではないか」と思い直進することを決意。
結論から言うと、道は繋がっていた。

直進ルートもあった!

道の合流地点からもう片方の道を確認するとどうやらこちら側も繋がってそうな様子。つづら折りルートの方が尾根筋を通っていたためかとても明るかった。そして道が谷の様になっていて落ち葉の堆積が深かった。

ここで明るくて平らな場所を見つけたので少し休憩をとることにした。

坂上の休憩所

水筒で水分補給しながらスマホで地図を確認する。
また、ここは多少電波が入るところだったのでネットを確認したりしてリアルタイムの情報を確認していた。
そして虫がすごい数まとわりついていた。顔周りを飛ばれると鬱陶しいがもはやそんなこと気にならなくなっていた。山道とはそういうものである。

気持ち長めの休憩を経て体力を回復した後、再び山道を歩き始めた。


突然の錆びたチェーン

急に現れるチェーンを横目に歩くと、道がより一層自然深くなってきた。


知恵の輪みたいな蔓


抜け落ちた木製の国土調査の杭

そしてこのあたりは特に分岐が多く感じられた。

判断に迷う分岐


さらに判断に迷う分岐

地籍図記載の道筋や、なんとなく積み重ねてきたデータからの直感で道を選択していく。
高低差やあからさまに谷底や暗い森の中に進んでいる道は除外できるが、写真の様に判断に迷う道も多くここばかりは雰囲気と直感で進んでいた。
足跡一つすらないので危ない。

道を運よく正解しつつ進むとここにきて一番のクソデカ倒木に出会う。


根ごと倒壊

なんとただでさえ狭い道を根ごと倒れた木々が塞いでいた。
スズメバチも飛んでいて危険性を増していた。カチカチ顎を鳴らさない様子から巣があるわけではなさそうだ。それを示すかのように仕事を終えた様子でどこかに飛んで行ってくれた。
左側を潜るにも狭すぎて潜れなかったので右側を斜面を登るように高回りして超えていった。
土埃も上がり服を汚しながら通過。
そして先に進むとさらにまた倒木が現れる。

倒木

もうこれくらいだと全然驚かなくなってきた。
ひょいと超えて先に進むと峠のピークが見えた。
写真でも道の奥先に見える曲がり角である。

そこを超えると南側からの陽光が明るく照らす道に出た。

振り返って一枚


北東に岬の様に尾根が伸びている

ヤマレコの地図を見ると峠道もほとんどが歩き終わっていて残すところあと少しという感じであった。

そして現在位置を示すアイコンに目をやると、近くに目を引く地図記号が存在していることに気が付いた。





見渡しの三角点

地図上には三角点を示す記号があるも、道の近辺を探してみてもどこにもありそうな気配がない。
そこで地形図を確認するとどうも尾根の上にありそうだと。
ということで尾根筋に登れそうな場所を探していると、それとなく道の様な急勾配の登り道があることに気が付いた。
そこを無理やり登っていくと尾根に出ることができた。
尾根の上を見渡すとすぐに見つかるわけではなかったが、地図を見ると尾根筋を少し進んだ先に三角点があるようだ。
進んでみると、尾根の一角に石が意図をもって置かれた場所があるのに気が付いた。



無事、三角点を発見することができた。
かろうじて文字が読めなくもないが、そのかすれ具合が時間の経過を物語っていた。
しかし三角点の発見というささやかな目標を達成できたこと、時間も丁度昼に近いということもあり、昼休憩をとることにした。
リュックを地面に置いて水筒と弁当袋を取り出す。
ついでにスケッチブックとペンも取り出してサクっとスケッチもしていた。


七夕坂紀行

麦飯は食べるとパワーが1.0回復するし、自身の周りの弾も少し消してくれる。
その効果があったのかここでは顔の周りを飛ぶ虫も全然いなかった。
麦飯の具も、海苔と昆布おかかという幻想郷では超希少品である。なんという贅沢!

ここまでの七夕坂紀行を振り返って「蓮メリはどういうことするだろ」「そもそもここまで来るのかね?」「登山道具持ってるのかな」
ということを妄想しながらスケッチをする。
実際に自分で見聞したことはオリジナルだ。創作に活かすことができる。

荷物をリュックに仕舞い、帽子を被りなおして再び出発する。
ふと路肩に目をやると椿が生えていることに気が付いた。

花弁がまるごと落ちてるし、多分椿……?

こんな山の中に椿は自生するのだろうか?
誰かが植えたのだとしたらと思ったら少し面白い。
ここに来るまでも山桜が咲いているのはよく見てきたが、この椿の花はなんだか特別に思えた。
ひときわ小高い尾根の上で周りを見渡せる一等地に植えられたこの木は、いわゆる都市部に咲く街路樹のそれよりも虫や鳥達と楽しく暮らしているのかもしれない。




山奥のエンカウンター

三角点の尾根から峠道に戻り、先に進む。
ここからは下り坂で足取りは大分軽やかになっていた。
陽が良く当たる南麓の斜面はとても明るく、鳥のコーラス隊のなかでキツツキのパーカッションも良く響いていた。
軽やかな足取りはそのまま歩行速度にも反映され、気が付けばゴール地点に近づいていた。
そしてこの近辺で植生の変化に気づく。
杉林に変貌を遂げていた。
それなりに需要があったのだろうし、それは人里が近いことも示唆していた。

そして路肩に捨てられた植木鉢やポットが見えてきたころ、峠道の終わりが見えてきた。
その光の先に進むと廃屋の軒先に出た。ここは衛星写真でも確認できる建物で、ネットで確認した上空写真を脳内で思い出し峠道の終わりを確信した。

踏破である。

そして喜ぶ間もなく、廃屋前を歩いて舗装路を目指そうとするとトラロープが張られていることに気が付いた。
おっと、ここはマズいかもしれない。
これがあるのでこの記事を見てもし峠道を行く人がいれば、道の終わりで引き返すことをオススメする。
後述する国道への連絡路もこのトラロープの先にあるので否が応でも往復推奨である。


国道への連絡路

国道への連絡路が通じているかサクッと確認して帰ろうと思い、歩みを進めたところ、自分以外の足音が近づいていることに気が付く。

近づいてくる足音の方に体を向け、こちらから「こんにちは」と声をかける。
すると草木の陰から男性の姿が見えた。
帽子を取りお辞儀をし、気持ちを謙譲モードに切り替える。

つれづれ「こんにちは!」
Aさん(仮称)「こんにちわ~、あっち(舗装路)側から来たの?」
つ「いえ、山の中を通ってきました!」
A「えぇっそっちから!?」

会話を交わしていると地元の方であることがわかった。
山菜を取りに来たらしく、今から自分と同じ国道連絡路の方向にワラビの籠が置いてあるから取りに行くとのことらしい。

つ「自分は今このあたりの歴史について調べているのですが、今はこの山道について調べていまして────」
A「あ~この道は僕もよう通ってたよ~七夕坂ね。」
つ「!?」

なんと自分の口から出るよりも先に七夕坂の6文字が出てきたのだ、これには驚きを隠せなかった。
まだ現地調査で質問をする人もそうそういないはずなうえ、現地の方に聞き込みをした人もネット上では確認できなかったのでおそらくAさんの質問の先回りとかではないはず。

つ「そうです!そのことについて調べているのですが───」

御親切に質問を受けてくださった方の情報をまとめると次のようになる。
・七夕坂という地名は知っている。伝承については知らない。
・この山道は40年前ほどにシイタケ栽培のためにブルトーザーで馴らした。
・小学生の頃は6年間通学のために毎日通っていた。
・馬力神の石塔などは一切見たことも聞いたこともない。
・県道29号は"新道"と地元では言っている。

貴重な情報に最大限の感謝を示すと「いえいえ、こんな山の中で会ったのも何かの縁ですし」とのこと。
願わくば、この方が質問攻めにあって東方オタクに辟易することが無いことを……

A「軍手してるのいいですねぇ、これは個人的な意見なのですがゴーグルもするといいですよ」

自分はこの言葉の重みを後に知ることになる。





地蔵だけが知る疲労

ワラビ籠まで行きがてら、国道まで案内してくれるとのことだったのでご厚意に甘んじて後を歩いて行った。
しかし道筋がおかしい。
もはや道というか、山の中───いや、もはや獣道ですらない緑の海の中を進んでいく。
当然蔓などの植物が顔にも飛んでくる。帽子のツバがあるとはいえ、全部防ぎきれるものではなく先述の言葉の重みをひしひしと感じることになった。

そして山の斜面を超えると久しぶりの舗装路に出た。

通ってきた道がわからない

GoogleMapで確認できた接続路とは全く違うところに出た。
Aさん曰く「ここはタケノコ泥棒しか通らない道」とのことだった。
驚きの連続である。
感謝の言葉を沢山送らせていただいた後、「じゃあ頑張ってね~」との言葉を貰い自分は国道を南下し、Aさんは山に戻っていった。

そしてわかりやすく斜面になってる方の接続路まで歩いていくと2人のレンタサイクルに乗っている人がいた。
格好からしてオタクだとわかったので、しばし情報交換をし、自分は斜面を登って再び峠道に戻るのであった。
しかしこちらの斜面からのエントリーポイントはとげの生えた低木が多く、とても危険な箇所であったので生身では到底無理そうな道であった。
さらに顔にまで飛んでくるのでここでも「ゴーグルした方が良いですよ」おいう言葉の重みを知ることになった。

斜面を登り、山道に復帰するとともにヤマレコを確認する。


そこには自分が通ってきた道筋が記載されていた。
それは紛れもなく自分が地籍図で確認した道筋と同じだった。
距離にしては短く、高低差も全く無かったがそれでも歴史ある道を歩けたことはこの上ない幸福だった。

七夕坂、踏破である。


その感動を味わい、Aさんへの感謝の気持ちを胸に再び峠道を戻っていった。
帰り道は下りが多めということもあり、想像以上に軽やかに、そして早く進んでいった。
そして懐かしき篠竹地帯をかきわけて進み、七夕坂入口の看板を見据えてグローブを外した。

そのまま出口まで歩いていくと、行きの時にも目に入ったお地蔵様が鎮座していた。
屋根付きの小屋に収められているとはいえ、その風化具合は時間の経過を静かに物語っていた。
きっと村と村の境、人里と山の境として置かれたのだと考えられる。

このお地蔵さまもかつては小学校に行く児童たち、荷物を載せて歩く馬車の往来を見守っていたのだろう。
今は全く往来が少なくなったにも関わらず、お供え物としてカップ酒が置かれていた。

素朴な信仰心が生んだ光景を見て人の存在を感じると共に、体の疲れがどっと出てきた。
肉体的なものもあるが、精神的な疲れもあるだろう。そして周りにはだれも人はいなかった。帰り道で出会った三人組もどうやら坂の奥に進んでいったようだ。(軽装だったけど大丈夫か?)
人間が誰もいないこといいことに、どっと疲れた顔をして歩いていた。
しかし口角は上がっていたかもしれない。
その顔の様子は鏡もなかったので自分すらもわからないし、ほかの人が見ていたわけでもないので誰もわからない。


唯一知っているとすれば、それはきっとお地蔵様だけが知っているのだろう。





七夕坂レポート









Ex.謎の地籍孤立地点


地籍図中の好奇心

地籍図を用いて机上調査をしている際、七夕坂と思しき道が確認できたと同時に、もう一つ気になる箇所が目についた。


山中に孤立する狭い地籍


図中のピンで刺してある箇所を見てもらうとわかるが、この地点だけ孤立したかのように小さい領域が存在しているのわかる。
ただこれだけだったのなら自分もあまり気にせずにいたのだが、なんとこの場所にだけたどり着くためかのように拵えられた道が伸びている。
しかもその入口はこの記事で示す②③の大きな入口から伸びていた。
これらの入口は篠竹に閉ざされた七夕坂入口とは違って明確に大きな道幅で山の中に続いていた。
こちらの方は七夕坂とは全く関係ないし、まったくもって情報が存在しない。
しかし気になったものは仕方がない。
馬力神の石塔かもしれないし、もしかしたら祠か何かがあるかもしれない。
せっかく装備を整えて訪れたのだ、このままこちらも探索してしまおう。
もはや秘封はおろか、七夕坂すらも関係なくなってしまった。
しかしそれでも身体を突き動かすものは純粋な好奇心だった。
学術的というよりももっと幼稚な、それこそ小学生男子が探検で路地に入りこむような。そういった類のものだった。

その好奇心を駆動させた先にあったものとは────






町内裏山道

七夕坂往復を終え、自販機に170円投入してスポドリを補充して改めて山に向かう。
入口は③の場所から入ることに決めた。
なぜかというとこちらは先行調査で奥まで進んだ時の情報が既にあったからだ。
結果的には違う入口が七夕坂入口だったもの、そのルートでの情報は道が確かに存在することを明確に示していた。
この情報を無下にするほど勿体ないことは無い。
謎への好奇心を胸に、二度目の入山を開始した。


③から入山
③を正面から
③を東側から


先行調査にもあった通り、はじめはどれが道すらかもわからない道を進んでくと、それとなく道と思しき箇所が見えた。
そしてここにも国土調査の杭が打たれていた。つまりここは明確に道であるということを示していた。

もはや見慣れたデザイン
発見地点


こちらの道も七夕坂と同じく尾根を進んでいく道なのだが、地形図の等高線の幅を見てわかる通り勾配がわりと急である。
しかも七夕坂を往復した後ということもあり脚には疲労がたまっていた。
もはや学生の頃の体力は無く、無様にも休憩を多めにはさみながら進んでいた。
幸福なのはこちらの道も広葉樹林帯であるので陽が明るく、気が楽なところである。昼過ぎの春の日差しは暖かく、許されるならレジャーシートを持ってきて昼寝したいほどだった。

そのまま進んでいくと尾根からその上の尾根に登るようにして道が続いていた。登っても登っても出てくる坂に絶望しながらも進んでいくと、上記の図中で示す予定ルート上の最も高い地点の尾根が見えてきた。
しかしこの尾根、ここに来て今回最も急な勾配を出してきたのである。
斜度にして40度とも感じられる激坂、もはや軽い崖と言っても過言ではないかもしれない。
苦労しながらも尾根を登り、予定ルートが示す下る道を見る。


え、ここから下るの?

「・・・・・・」

どんなマヌケな顔をしていただろうか。
道とは到底称せない斜面を見て悟る。

「これ等高線を横に辿って行った方が楽なんじゃね?」


そしてとぼとぼ道を引き返すのであった。
そして引き返すときここでも罠にかかりかける。
帰る際の斜面を間違えかけたのだ。
あからさまに帰り道の正面に現れ、しかも緩やかに下る斜面。
違和感を覚えられたのは幸福だった。自分が昇ってきた斜度を体が覚えていたのかもしれない。
忘れるな、激坂を。


北西に伸びる折り返しは間違えかけた斜面

GPSが示す等高線の位置まで戻ってくると、行きの時は目に入らなかった側道が見えてきた。
道にしては細いが、それでも道筋は認められるのでおそらくこれが目指すべき道なのだろう。

しかしなぜ先ほどはこの道が目に入らなかったのか。
無意識で脳が下した判断の経緯を、道の先を見ると理解することができた。

道……?






竹林オンクライム

葉の落ちた明るい広葉樹林から一転、薄暗い深い竹林が広がっていた。
いや、注目すべきは竹林の暗さでも道の細さでもない。
倒壊した竹の量である。
写真でも見て取れる通り、道に横たわるようにしておびただしい数の竹が倒壊しているのである。
遠目で見ても人を寄せ付けさせないその雰囲気は明らかにいままでの道とは違うものだった。
しかしここまで来て引き下がれるほどヤワな好奇心ではない。
靴紐を結びなおし、倒壊地帯へと向かう。
道幅は狭く、斜面に沿って倒れた竹は容易にハードル越えをさせてはくれなかった。
さらに竹によって腐敗具合が異なり、足をかけると崩れてしまう竹も混じっていた。

いままでの比ではない。

それでも進んでいくと、それを拒むかのように道幅は狭くなり、倒壊した竹の量も増えていく。
もはや視界は竹で埋め尽くされ、道先の地面すら見えない。
それでも"竹が無いことと仮定して"道を推測しながら進んでいく。

上記の地形図を見てもらえればわかるが、ここは道を外れたら深い谷底へ真っ逆さまである。
ここでスマホを落とそうものなら絶望である。そんなこともありスマホで写真を撮る暇もないまま進んでいった。

進むほどに倒壊の酷さは増していく。
倒れた竹の上に竹が倒れ、もはやジャングルジムのようになっていた。
こうなってしまうともはや"超える"ではなく"登る"という表現の方が正しかった。
先にある竹の塊を見据え、上を超えるのがいいのか。
それとも数本どかしながら進むべきか。
もしくは持ち上げるのを諦めて竹の下をくぐっていくか。

結論から言うと、どのパターンもあった。
服や帽子に泥をつけながら匍匐前進もして進んでいった。
しかしここで自分の中でひとつの真実が自己主張を始めてくる。


「進むということは、戻るということなのだ」


当然ながら、この道は往復である。
つまりここまで苦労した分を改めてもう一度繰り返して戻らなければならない。
そんな事実が自分の心に訴えかけてくる。
身体はほぼ満身創痍。
しかしここで引いてしまってはこの先ずっと後悔し続けるだろう。
もはや体を先に進めるのは好奇心だけでなく、意地も動員して駆動させていた。
たった数メートルすすむのに10分かける山道。
少し足を踏み外せば谷底へ真っ逆さまな崖上の狭路。
そして少し道が広くなり、余裕が出てきたのでここでスマホのGPSを確認する。自身のアイコンは目的地周辺を示していた。
もはや目視でも確認できる距離。
そして目標の方角にスマホのコンパスを合わせ、目線を奥にやる。

その先には──────

















満身創痍!





空(から)の帰り道 ~Redland Dream

ボロボロになりながら倒壊した竹林を抜けて山を下りていく。
結局あの先には何も見つからず、謎は謎のままとなった。
いかにも謎な雰囲気を醸し出していた領域だったが、実際に現地に向かってみて発見できるものは無かった。
地籍は存在するのでそこから過去を調べれば何かしらの情報が見つかるのかもしれないが、この記事を執筆中の今も含めてそこまで調べる気力が湧いてこない。

あーだこーだ思案しているうちに下り坂で分岐が現れた。
GPSで確認すると、先行調査の際に「②につながっているかも?」と推測されていた場所だった。
折角なのでとそちらの道を進んで下山する。
途中で見える谷底は湿地と化していて所々水面の反射が見て取れた。
過去の空中写真を見てみるとここは昔田んぼだったらしい。
もはや見る影もないその湿地が、年月の残酷さと自然の強かさを示していた。

古来より日本という地に住む人々は野山を開墾して農地を広げてきた。
それは農耕民族としての幕を開けた弥生時代からの歴史である。
農耕によって安定した食料を得られるようになった人々は急速にその数を増やし、新技術や新たな知識を持って自然を切り拓いてきた。

常に自然に対して勝利し続けてきた人類はおこがましくも「自然を守ろう」などという上からの目線でスローガンを掲げ始めた。
確かに環境保護は大事だ、しかしその内容を見つめてみると「自然資源の確保」にどうも帰結しているように見える。
つまりは自分で自分の首を絞めないために自然を守ろうとしているのだ。

ならば自然側からの侵攻が始まったとしたら?

目の前に見える、山に飲み込まれた放棄田は1975年には現役である様子が見て取れた。
たった50年。それだけで見る影もなく自然は呑み込めてしまうのだ。
今回の謎として提起された地籍の一角も、本来は何かしらがあったのかもしれない。
どうやらインターネット集合知によるとこの山には城郭があったかもしれないという話まで出ている。
本格的に発掘調査でもすれば何か見つかるかもしれない。
しかしそれこそ個人でする範疇を大きく超えている。
そんなことができない今、あの場所は完膚なきまでに自然に還ったままである。

この赤土町のある、常陸國という地域は東海道の終点の先として都に住んでいた人にとってはまさに異邦とも呼べる地域だったのだ。ともすれば様々な民間伝承が根ざしていることは容易に想像がつく。
さらに歴史をさかのぼれば、鹿島海がまだあった頃、大和朝廷侵攻の際に拠点となったのが鹿島香取息栖の、今日では東国三社と呼ばれる場所だったのだ。古事記に記されるほど深いその歴史はこの土地の多様さを一様に伝えてくる。
さらに常陸國風土記まで紐解けば、強大な祟り神『夜刀神』の姿も見えてくる。
土着民族と、入植してきた民族との対立は、東方オタク的には諏訪の土地と似た雰囲気を感じるだろう。
このようにこの土地は多くの伝承が根付いている。そしていまだに謎に包まれたものもまだきっとあるだろう。

謎は謎のままだな……と考えているうちに出口が見えた。
どうやら推察は当たっていたらしく、あの分岐は繋がっていたようだ。


ヤマレコの記録を見てみると、もしかしたら高い尾根を降りる際に間違えかけた道からも麓に帰ることができそうな雰囲気だった。
しかしそれを確かめることは当分ないだろう。

自分は今回の探索でかなり満足しているからだ。
今回の七夕坂を巡る一連の流れは当事者として大いに楽しませてもらったし、令和のこの時代にこんな謎が残されていたなんてという興奮も大いに得ることができた。

ここの探索を終えた後、自分は本来の予定であるここから近くの曾祖母の家に行ったのだが、そこで101歳となる曾祖母にもいろいろと話を聞いていた。
大正からこの地に住んでいる人の話はなによりも面白かったし、そこで出た「赤土の蕎麦」「水府たばこ」「金砂の大祭礼」という単語はこの熱狂にまかせて調べなければ軽くスルーしていたであろう単語だった。

何よりも嬉しかったのは、昔から聞いていた曾祖母の話に対する解像度が上がったことだった。
「大祭礼は昔のは5、6歳だったから覚えてないなぁ。でもこの間のは和田の方まで行って見に行ったよ」
この間(21年前)というスケール感は置いといて、和田という地名も調査の際に何度も目にした地名だった。

インターネット上の熱狂に身を任せて衝動的に動いた今回だったが、結果的にはたくさんのモノを得ることができた。
これからもインターネット上では考察などが捗るのかもしれない。それもこれもZUNさんによって常陸の一角にスポットライトが当たったことに起因する。

しかし柳田国男が著した伝承のことに関しては解明できなかった。自分も七夕坂について調べていた身なのでいまだに伝承の謎が解明できていないのは少しばかり引っ掛かりがある。

冒頭の文を繰り返すが、自分は妖怪や神といった存在が現存するとは信じていない。
しかしいたらいいなという気持ちは人一倍持っているつもりだ。
そしてその体で妖怪というモノの性質からある仮説を立てた。



妖怪とは人に伝えられる形で性質を変えることもある。
これによって、新たな性質を持つこともあればその逆もある。
例えば「天狗」なんかはその一例だ。
はじめにこの国に伝来したときは大きな音を立てて空を駆ける流星(火球)であったが、一度文献から姿を消したのちに再度現れたときには我々のよく知る鼻の高い姿となった。

このように元来の性質が失伝し、まったく別のモノに変貌を遂げることが妖怪といった存在にはままある。

では七夕坂の妖怪はどうか?
柳田国男が著した伝承はもはや別の坂と混同しているという説すらある。
ともすれば七夕の四ツ前に婚列も葬列も通らなくなってるかもしれない。
それは今現在確認できないことである。
しかしそれとは別に、実際に起こった事実というのは存在する。
新作発表から近年まれに見るインターネットの熱狂。これは紛れもないリアルに起こったことである。
暫くその熱狂の渦は続き、そして週を跨ぐとともにヒョイと一気に失速してしまった。

ここまでして多くの人を突き動かした潮流の源。



それこそが七夕坂の妖怪の力ではないだろうか。





近年、コンテンツの消費速度は加速し続けているがその一言で片づけるのではどうもつまらない。
あの様子はまさしく皆が何かに"取り憑かれた"かのように動いていたとみればもっと楽しくなってくる。
今日日まれに見る古のオカ板の様な流れ。
今日日まれに見るネットで調べてもすぐに解らない伝承。
それらは令和のこの世においてまれに見る、楽しさであった。

そして最後に衝撃の真実を暴露して、本記事の締めとする。















『七夕坂夢幻能』って、まだ頒布されてないんですよ





2024.4.20
赤土七夕坂紀行


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