不毛なる『庫内灯』

 五歳になる娘は最近文字を読めるようになったことがうれしいらしい。先日、僕がある俳句雑誌を読んでいると横で「まだ…に…つてをらず…」とつぶやいているので、何だろうと思ったら、「まだ道に迷つてをらず秋桜」(藤井あかり)という句を読んでいた。僕が漢字の部分を補って読んでやると「どういうこと?」と訊く。おそらくこの句は彼女が生まれて初めて読んだ俳句であったろう。手持ちの語彙も少なく俳句形式も知らない五歳児にどう言ったらいいものだろうか。とっさに僕は「道を歩いていたらコスモスがゆらゆら咲いているのを見つけて寂しいような気もしたんだけど、あ、そういえば私はまだ迷子になったことがないんだって思ってうれしくなったというお話だよ」と説明していた。(この説明の内容の是非についてはひとまず置くとして)僕は自分がこの句の説明をするときに「…というお話」と結んだことが、自分でも意外に思われた。僕は俳句を物語として読むことがあるのだと、このとき初めて気づいたのである。同時に、僕はこの句から立ち上がる「お話」ができるかぎり面白くなるよう、勝手に「補正」していることにも気がついたのである。

 考えてみれば、俳句は書かれていない情報が多く、そこをどう補うかということは読み手に委ねられている。そして、その補いかたに、読み手の俳句形式との向き合いかたが投影されもするのではなかろうか。その意味では、今年九月に第二号が発行された『庫内灯』の試みは興味深いものだ。『庫内灯』は「BL俳句誌」を自称している。佐々木紺は創刊号の巻末で「BL」について、「ボーイズラブの略称であり、狭義には少年同士の恋愛のことですが、BL俳句で指したい『BL』にはリアル~少年愛、場合によっては男女や女女、性別不詳同士の関係も含まれると思っています」と説明している。創刊号ではまた、石原ユキオが次のようにも述べている。

情景を想像し、ストーリーを想像せよ!
(略)ただしこの本はBL俳句の本です。三次元的な風景がしっくりくるとは限らない。多くの俳句は三次元を写生しますが、この本には二次元を写生した俳句が載っているかもしれません。(略)
そうやって何らかの情景が思い描けたら、つぎにその情景の前後のストーリーを妄想してみましょう。好きCP(カプ)をあてはめるのもいいと思います。また、俳句の音の響きそのものにフェティッシュを感じることもあるかも知れません。脳内の腐敗菌を活性化させて存分にお楽しみください。

 「BL俳句」「BL読み」は突然現れたものではなく、七〇年代の『ポーの一族』(萩尾望都)、『風と木の詩』(竹宮惠子)といった作品に描かれた少年愛への嗜好に始まり、八〇年代の「やおい」ブームを経て今日に至る、サブカルチャーにおいてはすでに広く認知された創作・読みのありかたと地続きのものである。とりわけ「BL読み」は、原作がすでにBLを描いている場合はもとより、原作にはキャラクター同士の恋愛関係が描かれていなくとも読み手が勝手に想像する、いわば二次創作としての読みの実践である。目の前にある作品を読み手が「補正」する営みだということもできるだろう。

春星を空ごと離す夜としたし    旭ミコ
乳暈のまわりつぷつぷ通り雨    石原ユキオ
杉を伐る深山や夕立くる気配    岡田一実
グレヱトを冠すともだち星月夜   かかり真魚
夏の雲肺ふくらめば言葉消ゆ    榮猿丸
白黒の黒を薄めていきて白     なかやまなな
くちづけのあと春泥につきとばす  松本てふこ

 これらは『庫内灯』第二号に「BL俳句」として発表された句である。「BL俳句」と銘打ってはいるものの、たとえば「杉を伐る深山や夕立くる気配」のように、一見しただけでは「BL俳句」としては認知しにくいような句も多い。しかし、BLを詠んでいることが明確にわかるかどうかは問題ではない。そもそも、「BL俳句」を読むということ、あるいは俳句を「BL読み」をするということは、読み手が「BL読み」以外の読みの可能性を常に想定しながら、そうしたまっとうな読みを保留しつつ、BLへと補正していく営みであるからだ。

 たとえば第二号で豊永裕美は「氷菓互ひに中年の恋ほろにがき」(秋元不死男)を次のように読んでいる。

 苦しくなるほどの炎天下の中、二人の中年男性がベンチに隣り合って座っている。二人とも無言で、しかし時折互いに気付かれないよう、互いをちらと見ては、すぐに目をそらす。(略)
 二人は別れて以来久々に出会った。おそらくこれは偶然の再会であっただろう。どうしようもないほどに何度も傷つけ合い、もう二度と会わないと決めていたのかもしれない。もうお互いに家族も持っているのかもしれない、しかしまた出会ってしまった。
 どちらからともなく自分たちの持っている氷菓を互いに差し出し舐め合う。それはどこか性的な行為とも通じるようで、氷菓が尽きたあとにまた新しい関係が始まってしまうことは二人とも予感している。

 秋元の句にはこのように読まれなければならない必然性はないが、一方で、このように読めるような気もする。見方を変えれば、秋元の句は必ずしもこのような読みを想定して書きとめられたはずではないのに、たしかにこのように書きとめられてもいるのである。秋元の句だけではない。『庫内灯』では「死病得て爪美しき火桶かな」(飯田蛇笏)にも「月天心貧しき町を通りけり」(与謝蕪村)にもBL読みが施されているのである。

 しかしBLには批判がつきまとう。たとえば、豊永の読みを前にすると、その読みの巧拙以前に、こうした読みに興じることの倫理的な是非を問いたくもなる。松本てふこが「以前BL短歌の『共有結晶』が短歌プロパーの人に叩かれたことがあって。でもそういう批判ってジャンル批判の色が強くて、作品批判ではないことが多い」(松本てふこ・北大路翼による対談「BLと身体」『庫内灯』第二号)と言っているのは、もっともなことだと思う。こうした批判には、古くはゲイ男性の佐藤雅樹による「ヤオイなんて死んでしまえばいい」(『CHOISIR』一九九二・五)があった。

 なんで男同士のセックスを想像して喜んでるんだろうか。女の子たちって、よくわからない。(略)
 ヤオイが好きなのは、美しい男だけだ。
 ゲイだって、いろいろなゲイがいる。男らしいゲイ、女らしいゲイ、きれいなゲイ、醜いゲイ、若いゲイ、年寄のゲイ。ヤオイが好きなのは鑑賞に耐え得るゲイだけだ。ヤオイにとって醜いゲイは、ゲイとは認識されないのだろう。(略)所詮、観賞用の存在でしかないなら、そこには人格や心など必要ないし、見てくれがすべて、なのだろう。美しいゲイだって、歳はとる。花が枯れるように、容貌だって衰えていく。人間でさえないゲイは、枯れた切り花のようにごみ箱へぽいと捨てられるのが運命なのだろうか?

 BL作品で扱われるゲイがファンタジーのそれであって、現実のゲイとは異なるということ―だからわざわざ現実のゲイの呼称として「リアルゲイ」という言葉があるのだろう―の倫理的な是非について、僕らはどう考えたらいいのだろう。こうした現実との乖離の問題はまた、北大路翼の発言「でも、なんかBLを隠したりしてるんでしょ、この人たちは」(前掲「BLと身体」)のような、匿名性への批判とも繋がるものだろう。

 しかし、僕たちはそもそも道徳の授業で俳句を書いたり読んだりしているのではない。「BL読み」は極私的なものであり、「脳内の腐敗菌を活性化させて」こそ楽しめるという、誤読を前提とした読みなのである。そのような共通認識があればこそ、彼らは互いの読みに(とりわけその嗜好について)必要以上に踏み込んで論じないのである。その意味では「BL俳句」も「BL読み」、も不毛な営みだ。しかし重要なことは、これらが、その不毛さのなかに抵抗の作法を織り込んでいるということである。もしこの不毛さをもってこれらを否定するのならば、その前に、僕ら自身が知らず知らずのうちに行なっている「多毛な」営みの気持ち悪さについて考えてみるべきだろう。たとえば、僕らはある句を読むときにその句についての読みの歴史を参照することがあるし、その歴史の積み重ねの上により適切な読みが生まれると考えることがある。これはごくまっとうな考えかただし、このような読みの努力をすることはちっとも恥ずかしくない。堂々と披露されるべき―いわば実名で披露されるべき読みはこのような営みから生まれる。けれども、このような読みが抑圧するものはなかったか。

 「BL俳句」と定義が曖昧であることについて、先の対談のなかで松本は「恋愛だったり性愛の形っていうのが、あまりにテンプレートなものであって、たぶん読んでいる人たちがそこに自分も囚われているっていう思いがあって。そういう状態を窮屈だって表明してそこから逃げるために、あえて言い続けなければいけないというところはある」と答えている。たとえば、僕らが「杉を伐る深山や夕立くる気配」をBLだと思わないのは当然である。「氷菓互ひに中年の恋ほろにがき」にしても、僕らは当然のようにこの「中年の恋」を男女の恋として読むだろう。しかし、そんなふうに自らの読みを堂々と披露する僕らの視線の外に、部屋の片隅でこっそりと自らの読みを育んでいる者もいる。でも彼女(彼)は公の場では決して声をあげないから、僕らは見過ごしてしまう。それに、僕らはとても正しいから、正しくない彼女(彼)を見過ごすことに何の痛みも感じない。けれど、本当にそれでよかったのだろうか。

 このように考えるとき、(仮に彼女(彼)が意図的に名前を曝さずにいたとしても)匿名性を彼女(彼)の覚悟のなさとして批判していいものなのかどうか、僕にはよくわからない。むしろ、名を曝さないことにこそ彼女(彼)の営みの矜持があると思うからだ。もちろん、名を曝さないで発言するのは卑怯である。それはいうまでもないことだ。でも、その卑怯さに気づけないほどに彼女(彼)は愚かなのだろうか。いや、そもそも、卑怯だからなんだというのだろう。僕らは、この卑怯さを批判するとき、はたして卑怯さを引き受けている者の持つ痛みにまで目が届いているだろうか。

 日本で「やおい」ブームが起こっていたころ、アメリカの名門女子大学であるミルズ・カレッジでアーシュラ・K・ル=グウィンが「左利きの卒業式祝辞」(『世界の果てでダンス』白水社、一九九一)という講演を行っている。これは、かつての「やおい」ブームの担い手の大半が女性であったこと、そして現在BLに関わっている者もその大半が女性であるのはなぜかという問題を考えるうえで、僕には、何がしかの示唆を与えてくれるものであるように思われてならない。

 男性を中心とした社会では、女性は人生のあらゆる「側面」を生きてきました。そして、それゆえに軽蔑されてきました。その「側面」には、弱さ、病気、理屈に合わず取り返しのつかないもの、曖昧で受動的で、抑えがきかず、汚らしいもの全てが含まれています。これらは人間の人生の闇夜の部分です。成功を求める者はこれらを否定し、拒否してきました。そして、女性はこれらに対して責任をとってきたのです。(略)
 私はみなさんが決して犠牲者になることなどないよう望みますが、他の人々に対して権力を振るうこともありませんように。そして、みなさんが失敗したり、敗北したり、悲嘆にくれたり、暗がりに包まれたとき、暗闇こそあなたの国、あなたが生活するところ、攻撃したり勝利を収めるべき戦争のないところ、しかし未来が存在するところなのだということを思い出してほしいのです。私たちのルーツは暗闇のなかにあります。大地が私たちの国なのです。どうして私たちは祝福を求めて天を仰いだりしたのでしょう―周囲や足元を見るのではなく?私たちの抱いている希望はそこに横たわっています。空にではなく私たちが見下ろしてきた地面のなかにあるのです。上ではなく下に。目をくらませる明かりのなかではなく、栄養物を与えてくれる闇のなかで、人間は人間の魂を育むのです。

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