「内輪」批判についての備忘録

 俳句にまつわる批判のひとつに、結社や同人内での褒め合いや、「お友だち」同士の褒め合いに対するものがある。だから、現に僕の所属する同人誌においても、そういう褒め合いに厳しくあろうとする姿勢が共有されているのを感じる。こうした批判は、「俳壇」とか「俳句世間」なるものの閉鎖性への批判とも繋がっているものだろう。でも正直にいうと、僕はこの手の批判に飽き飽きしているし、それ以上に、こうした批判のがさつさに耐えがたいものを感じることがある。内輪での褒め合いがいけないなどということは常識的に考えてもあたりまえのことだし、こと俳句に限ってみてもこうした批判は何度もなされてきたのだから、いまさらこんな批判で目を覚ますような者がいたとしたら周回遅れも甚だしい。こんなあたりまえの批判がどんなに繰り返されても、それでもなお内輪での褒め合いがやまないのは、そもそも、そのいとなみにそれだけの切実な意味があるからではないのか。
 いうまでもないことだけれど、自分が生きているなかで起こる人との出会いはひどく偶然的だし、実際に出会うことのできる人の数には限りがある。これは俳句との出会いや俳句についても同様で、だから、その俳句作品との出会いは非合理的なものにちがいないし、少なくとも僕には、ある特定の作品とつきあってしまったことで出会えなくなってしまった作品がたくさんある気がする。そして、そんなやりかたでしか出会えない以上、ある人がある俳句作品を愛することは、とても傲慢な選択を伴ういとなみであると思う。「内輪」の意識はこうした営みの先に生まれるものだろう。それを堕落だというのなら、いったいどこまでが崇高な愛情でどこまでが堕落だというのだろう。そしてその線引きは誰に許されているというのだろう。
 「内輪」などとひとくくりにしてしまうけれど、内輪での褒め合いを批判する者には、そもそも、その「内輪」なるものがどのように形づくられたものなのかが見えているのだろうか。では僕は―?僕はそんなものあまり見たくないし、見てはいけないとも思う。だって自分のなかにある「内輪」の感覚をかえりみてさえ、その根源にあるものの気色の悪さに容易に思いあたってしまうからだ。
 ただその気色の悪さは、ときに美しさへと反転することがある。誰かと誰かがやりとりをしているのを見聞きしたとき、そこに「内輪」の感覚が垣間見えると思わず吐き気と萌えとを感じるのはそのためではないかという気がする。

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