俳句形式と「楽になる」こと

 俳句の入門書を読んでいると、しばしば、「っ」「ー」は一拍ですが「ゃ」「ゅ」「ょ」は単体では一拍ではないので注意しましょう、といった説明がなされていることに気がつく。逆にいえば、拍数にまつわるこうした感覚は、俳句のような定型詩に慣れているとあたりまえのように思ってしまうけれど、実は日常的に日本語をつかっているような人においてさえ必ずしも共有されていないような、やや特殊な感覚であるのかもしれない。
また別の例でいえば、俳句初心者のやりがちなこととして「分かち書き」がある。俳句に慣れ親しんだ頃に、ふだん俳句を読み書きしない者が上五と中七の間、中七と下五の間にそれぞれ空白を設けるような表記をしているのを見て、なんか違うなあと感じることはなかっただろうか。
  柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺
 俳句の読みかたに慣れてしまった者にとって、たとえば〈柿食へば〉の句は中七と下五の間の切れが明らかであり(さらにいえば上五と中七の間に文脈上の軽い切断があることも明白で)、いちいち可視化せずとも、それは見えていることだ。また、そのような切れが意識される以上、この句は五拍・七拍・五拍というリズムで読まれるものであるにもかかわらず、読む者の意識のうちでは「柿食へば鐘が鳴るなり/法隆寺」というように、五拍・七拍・五拍のリズムを分断したり横断したりして受けとめられるから、リズムを明示するこの空白はむしろうるさく感じられる。つまり、俳句を読むときには、五拍・七拍・五拍という外在的なリズムに依拠しながら、個々の読み手が瞬時に最も心地よいリズムを構築するというような、思いのほか複雑な作業をしているのである。それを書く方法として転用したのが「中切れ」「句またがり」、あるいは「字余り」「字足らず」「破調」、さらには伊丹三樹彦らの分かち書きや、多行表記と呼ばれるものなのではないだろうか。
いま、多行表記と書いたけれど、多行表記の価値がもう少し多角的に論じられるべきものであることはいうまでもない。しかしながら、ここでさしあたって注目したいのは、多行表記が俳句形式もつリズムへの執着と切り離せないものであるということだ。
 前回、日常での言葉づかいの忘却が極限まで進んだ状態に身を委ねるような句作のありかたについて書くなかで、僕は高柳重信の文章を引いた。今回はこの文章について、リズムへの執着という観点から改めて考えてみたい。

十数年前、たしか句集『黒彌撒』を上梓した頃から、しばらく俳句を書く習慣をなくしてしまったことがある。この場合、習慣という言葉は少し妙な気がするが、やはり習慣と言っておくべきであろう。もちろん、俳句形式については、いつも思いをめぐらしていたが、にもかかわらず、当時、僕の胸中に兆しはじめた俳句の大半は、その発想の段階において、すでに昨日の僕の手で書き終ったものの繰り返しのように感じられたので、実際にペンを執って文字を書く以前に、いまだ構想を練るにも至らないまま、たちまち放棄されていったのである。俳句形式にまつわる機微の一つが、そんなところにもあった。
そこで僕は、ただ単に俳句を書く習慣を回復するだけのために、ときおりペンを執ることを心がけるようになった。すでに俳句形式が知り尽くしている技術のみを使って、発想と同時に瞬間的に書き切ってしまうという試みが、それであった。その多くは、友人たちが集る月例句会の席上で、一句について五分間以上は考えないという制約を厳密に守りながら、ここ十年ほど継続して試みられてきたものである。(「あとがき」『山川蝉夫句集』俳句研究新社、一九八〇)

 高柳のいう「俳句形式」とはいかなるものであったのか―いま、それに深入りすることはしないけれど、『黒彌撒』以後、あるいは『山川蝉夫句集』を読むかぎりにおいては、少なくとも十七音という音数とその音数に基づく韻律とが高柳の想定する「俳句形式」の一要素をなしていたと考えるのはそれほど間違っていないように思う。そして実際、高柳のいう「俳句形式」を音数律への拘りという観点から考えてみることで、「山川蝉夫」としての高柳の営為の一端が見えてくるようだ。
 伊藤亜紗は、吃音を持つ者がリズムに「ノる」ことで流暢に話せるようになる現象について論じるなかで、同じ幅の単位の反復である「リズム」の法則性に依存し「リズム」とともに運動していることで楽になる状態(運動を部分的にアウトソーシングしている状態)こそが「ノる」という状態であると述べている(『どもる体』医学書院、二〇一八)。そのうえで、「「ノる」が始まるときでさえ、私たちは決して「同意して」「引き受けて」ノり始めるわけではありません」と指摘し、さらに次のようにいう。

 このような、能動も受動も問えない、「気づいたらノっていた」状態について、哲学者のエマニュエル・レヴィナスはこう語っています。「リズムは、同意や引き受けや主導権や自由を語ることのできないような比類ない状況を表している」。(略)
 こうした能動と受動が混じり合う状態のなかで「自己から匿名態への移行」が起こる、とレヴィナスは言います。それは意識的でも無意識的でもない状態です。ノっているとき、私たちは運動を意識的に構築しているわけではありません。かといって、夢遊病者のように無意識の状態に陥っているわけでもない。「リズムという存在様相には、意識の形式も無意識的なものの形式も適用されない」。匿名態とは、この「無意識ではないけど自分でコントロールしているわけでもない状態」を指します。

 俳句形式のもつ韻律をこの「リズム」の一種であると考えるならば(実際伊藤自身も『どもる体』のなかで俳句を例に出している)、高柳の試みの意味がいくらか見えてくるようだ。ようするに、高柳は匿名態ともいうべき状態で書いていたのであって、そのような書きかたをあえて繰り返すことによって、「俳句を書く習慣」を「回復」していこうとしていたのではあるまいか。
 ここで見逃してはならないもう一つことは、先の文章のなかで高柳がしきりに「習慣」という言葉を用いていることだ。國分功一郎は、「環世界」(それぞれの生物が一個の主体として経験している具体的な世界)に関するユクスキュルの議論をふまえ、「環世界論の考え方から言えば、習慣を創造するとは、周囲の環境を一定のシグナルの体系に変換することを意味する」と述べている(『暇と退屈の倫理学』朝日出版社、二〇一一)。「周囲の環境を一定のシグナルの体系に変換する」とは、たとえば「信号が赤なら止まり、青なら進むというように、生きている環境の全体を記号に変えていく」ことであり、こうすることで人間は新しいものに出会うときの疲労から解放されるというわけだ。
 もちろん、國分のいう「習慣」と高柳のそれとを安易に同一視するわけにはいかないだろう。ただ、國分が「ひとたび習慣を獲得したとしても、いつまでもそこに安住はできない」ので、状況の変化に応じて「私たちは絶え間なく習慣を更新しながら、束の間の平穏を得る」とも述べているのに対し、「俳句を書く習慣をなくしてしまった」高柳が、「ただ単に俳句を書く習慣を回復するだけのために、ときおりペンを執ることを心がけるようになった」と告白していることは、高柳の書く行為を考えるうえで示唆的であるように思う。ようするに高柳は、「俳句を書く習慣」の更新時期が来たときに、それを更新するのではなく「回復」することを選んだのである。それはいってみれば、自らの生にもたらされた新しい状況とぶつかりながら「昨日の僕の手で書き終ったものの繰り返し」を超える新しい俳句を書いていくのではなく、「昨日の僕の手で書き終ったものの繰り返し」をすることをあえて選びとるというような、やや奇妙なふるまいを意味するものであった。『山川蝉夫句集』に見られる試みは、そうした選択によって初めてなされうるものだったのである。
 ところで、先の伊藤によれば、「リズム」とは「新しくなくすること」であるという。リズムは同じ幅の単位の反復であり、その反復においては「今起こっている出来事が、過去にもあったようなこととして経験されている」―つまり「「現在」が「過去」と重ね合わされている」。したがって「リズム」には「新しくなくする」効果があるわけである。むろん「俳句形式が知り尽くしている技術のみを使って、発想と同時に瞬間的に書き切ってしまうという試み」をしていた高柳にはわかりきっていたことであったろう。

 現実そのものは、一瞬一瞬が新しく、どうなるか分からない予測不可能性をはらんでいます。しかしリズムにノっているあいだは、その新しさ、つまり「過去との違い」が「過去との類似性」に飲み込まれるような形で克服される。現在の意味が過去によって枠づけされ、新しさもそこに回収されてしまう。(伊藤亜紗、前掲書)

 そういえば、「俳句形式では現実をとらえられない」といった類の議論は第二芸術論をはじめとして、決して珍しいものではない。鈴木六林男などは、こうした「新しくなくする」俳句形式の力に抗いながら書き続けていた一人だろう。かつて六林男は、「俳句には型と形がある。型は伝承的なものでこれを解体し、自分独自の形に組み替えなくてはならない」と言っていたというが(宗田安正『最後の一句』本阿弥書店、二〇一二)、この言葉は六林男の書きかたを象徴していよう。しかし、こうした六林男の書きかたは、実際には時代とともに変化していくものであった。そうした六林男のありかたを「後退戦」と呼んだのは江里昭彦である。江里は、戦場体験を経て「彼において、国家権力と生存本能とに対峙することで実存が意識化される、という思考形式が定着」したと述べたうえで、高度経済成長以降の六林男の文体の変化について次のようにいう。

  雨の雑踏雨衣より垂れ労働者の手
  市民の夜へ滴る暗い工事の穴
  父を逃れ母を遁れて墓標と撮られ
 こうした性急な口調の、定型を酷使するような文体が数を減じ、やがて、『國境』所収の「夜ふけ戻る奴ら磨かれ射程裡に」「顔がふえ狙撃兵となり鴉となり」あたりから姿を消すのである。(「後退戦が人生の過半を占めるとき 『鈴木六林男全句集』小論」『鬣TATEGAMI』二〇〇九・五)

 「性急な口調の、定型を酷使するような文体」は、いってみれば、定型詩での表現を志向しながらも、「生はリズムでは表現されず、リズムを恥じる」(バフチン)といわれるような、定型詩ゆえの困難を克服するべく選択されたものであったろう。それは、「リズムを恥じ」つつもリズムで表現していくという、矛盾をはらんだ相当に困難な道のりであった。しかしそれはまた、六林男独自の思考形式の実践のためには欠くべからざるものであった。だが、やがて人々の向上した生活状況とそれをとらえる六林男の思考形式との間にひずみが生まれるようになると、俳句形式のもつリズムへの抗いに満ちたその文体を維持するための根拠が希薄になっていく。その後の六林男が〈濃霧の朝山陰線のしんとして〉〈身のまわりけものの眼玉長夜経つ〉といった句を量産するようになるのはそのためだ。「ごつごつした、横紙やぶりの、挑発的ですらある、彼特有の文体が、ちらほら見かける程度にまで減るのであれば、六林男をめぐる景色が、読者の眼にかなり違って映るのも事実」と江里はいう。
 六林男がこんなふうに、「新しくなくする」俳句形式の力に抗いながらも後退戦を繰り広げていったのは、おおよそ一九六〇年代以降のことである。一方で、そのころの高柳はといえば、まさに「すでに俳句形式が知り尽くしている技術のみを使って、発想と同時に瞬間的に書き切ってしまうという試み」を始めた頃であった。

 もし久しぶりに俳壇を眺める人がいるとすれば、いちばん大きな変化として真先に気がつくのは、たぶん理想の喪失ということであろう。振り返ってみると、あの正岡子規の俳句革新運動以来、いかなるときといえども、この俳句形式に対して理想を抱き、その実現に努める俳人たちの姿を、必ず見ることが出来たように思う。その理想を掲げる人たちは、もちろん時代と共に交替していったが、しかし、そこが絶えず俳壇の頂点を成すことに、いささかの揺るぎもなかったのである。その意味で、いつも一貫した姿勢を維持する鈴木六林男のような存在は、いま特に貴重と言うべきであろう。(「編集後記」『俳句研究』一九八二・七)  

 困難な後退戦を戦う六林男の姿は、高柳にも見えていた。高柳はその六林男を横目に、むしろ「新しくなくする」俳句形式の力と積極的に手を結ぼうとしたのであった。むろん、その道行は、俳句の現在に対する絶望感の漂うものであった。

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