数年たって彼女たちは

 先日、俳句甲子園に出場したメンバーが久しぶりに集まって、当時の顧問だった僕もそこに呼ばれた。みんな成人しているとはいえ、彼女たちと僕とは当然立場が違っていて、何かというとすぐ調子に乗る僕はハラスメントの加害の側に回るのではないかと内心びくついていた(以前、卒業生に声をかけて文フリに参加したらおもしろいのでは、ということをかなり本気で考えて、しかし結局彼女たちに声をかけることなく終わったのも、それがパワハラに繋がる懸念をどうしても拭えなかったからだった)。
 彼女たちの話の内容は終始他愛もないもので、今の推しがどうとか食べ物がどうとかいうことばかりだった。「誰かがうっかり5億円振り込んでくれないかなあ」と言って笑いあうようなことは、僕には不毛なものに思えたし、実際「君たちの会話は本当に不毛だね」と言ったように記憶している。
 けれども、そうしたとりとめもない会話をしばらく眺めているうちに、誰かがふと、「就職や勉強や恋愛の話はもう嫌なんだ」ということを言い、僕はどきりとした。僕がそのとき彼女たちに聞いていたことといえば、インターンに行っているのかとか、大学で何をやっているのかとか、浮いた話はないのかとか、そんな話ばかりだったからだ。そうして、実は、この不毛な会話こそ、彼女たちにとって切実な抵抗の作法なのではないかと気づかされたのである。大学卒業から就職にいたる過程で、周囲はいよいよ目の前のパイの奪い合いやポジションどりに躍起になっていく。彼女たちだって、否応なしにそんなゲームに参加しなければならない。そういえば、俳句甲子園にむけて彼女たちを指導していたとき、何が一番大変だったかといえば、彼女たちが俳句の形式的な制約や俳句甲子園というゲームになかなか馴染めなかったことだった。目の前でパイの奪い合いが行われるとき、彼女たちはいつも少しだけ出遅れてしまい、いつも少しだけ損をしていて、いつも少しだけゲームの外側にいて―それは、彼女たちが女であるということにも関係があるのかもしれない―、それが当時の僕にはどうにももどかしくてならなかった。
 俳句甲子園を終えて数年が経ち、いま、自分の将来に生産的に向き合おうとしていないかのような彼女たちの不毛な会話を僕は鼻で笑ったが、そんな僕に、彼女たちの一人が「先生はオタクを馬鹿にしていますよね」と言った。そういえば、俳句甲子園のときだって、彼女たちはオタク気質という、これ以上ないほど不毛な資質ひとつを切り札にして戦っていたのだった。それが彼女たちが自らの尊厳を守るためにとることのできるほとんど唯一の方法なのだとすれば、それは決して否定されてはならない。たとえそれが批判されるべき面を持っていたとしても、彼女たちの生を支えている誇りを踏みにじってはならない。
 彼女たちは、いま、とてもいびつなかたちで大人になっているようである。食事の代金や時間が予想を大幅に超えてしまったのも、いかにも彼女たちらしい。
 ちなみに、食事の代金を払う段になって、僕が少し多めに払うのが筋だろうと思ったものの、結局割り勘になってしまった。こういうときのうまいお金の出しかたが僕はいまだに身についていない。そういえば、俳句や俳句甲子園に馴染めなかったのは僕のほうだったのかもしれないなあと、帰り道で思ったりもした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?