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名もなき引力④

笑った彼の、全くもって無害なはずの細い目から、恐ろしい程の引力を感じた。引きずり込まれそうな、闇。誰かと似たような、誰か以上の。

「…え、あ!ちゃうわ!自分が危ないって意味じゃなくて…」

己の関西弁による意思疎通の齟齬に気付き、大島は手を振って否定した。この部屋は本がたくさんあって、それが崩れるかもしれないから君が入っては危ないと説明しようと、そう弁解しようとした。
しかし弁解の余地はなかった。目の前に広がる六畳間には本の山など一切無い。それどころか、一冊も書物の類すら無かった。あるのは隅に畳まれた布団、小さなちゃぶ台と万年筆とインク壺、そして紙と紙と紙と紙。原稿用紙が無造作に散らばっている。蒸し暑い部屋を歩く彼の足の裏に、くっ付いては散っていく。

「えっと…きみは、」

「キヨ」

「きよ?」

「僕の名前です。」

あぁ失礼と、大島も自己紹介をする。瀬川教授の書生をしている大島です、と。その瞬間、キヨと名乗った彼は青白い顔に並ぶ双眼が小さく揺らいだ事には気付きもしないで。
キヨは、此処にずっと住んでいるという。先程は今日はあまりにも暑いので水を飲もうと裏手の井戸へと向かったのだそうだ。先住の書生なのだろうかと一瞬考えたが、それにしては衣服があまりにも無造作だ。暑い日でも、大島は白いシャツにスラックス姿だが、キヨは麻の浴衣を緩やかに着ている。頼りない鎖骨や汗を薄く纏う首筋を惜しげも無く晒している。同じ性別であるはずなのに見ることを後ろめたくなるような、儚さから滲み出る謎の色香に大島は狼狽していて。

「あー…えっと、そうや。キヨはいくつなん?」

その動揺を隠さんと世間話をしようとしたが、どれくらい前から此処に住んでいるのかだとか年は幾つなのかと、基本的なパーソナリティについて尋ねた。しかし彼は小首を傾げるばかりだった。語彙は理解しているようだが、コミュニケーションを取る最初の、紹介すべき自己の情報があまりに乏しい。その辺りで、大島はうっすらと覚えていた違和感が間違いないものだと確信した。大体、母屋に住む人間は此処を物置と呼び近付くなと警告した。そんな窓もろくにないこの部屋で紙に囲まれている彼には、何か訳があるのだろうと。
病か、はたまた別の理由か…

「それ…」

「ん?あぁ、植物図鑑?好きなん?」

「いえ、本を…読んだことなくて。」

「え?!」

本を読んだことがない?
確かに、この部屋に書物はないにしても、見るからに二十歳を迎えていそうな彼が一度も書物を手にしたことがないなんて。しかも、大島の足元にも散らばる原稿用紙には確かに日本語で言葉が並んでいる。その矛盾は…

「これ以外、読んだことがありません。」

彼は自分の寝所の枕の中から、ボロボロになった国語辞典を取り出した。ページがほとんど扇状になるほどに紙が痛み、あちこちが破れたり折れていたりする。これ以外、国語辞典以外読んだことがないとは…

「じゃあ…読む?これ。」

「…いいんですか?」

植物図鑑に並ぶ緑よりも明るく、彼はふわっと微笑んだ。青白い肌に不意に射した笑顔は、まるで越冬地にふと現れた日差しのように温かく尊ささえ感じさせて。
うんざりするほどに蒸せる夏の日に、ここまで心が温まることを焦がれるだなんて。大島は、キヨに本を手渡した。

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