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ヨコハマ・ラプソディ 9

九.夏休み 

関東の梅雨明けが発表されたあとの最初の土曜日も、やはり暑く空は快晴だった。
志織は昨日の午後から高校の夏休みに入っていた。うちの大学は一部の学部以外、すでに夏休みに入っている。これからは曜日に縛られることなく志織と逢うことができる……はずだった。
だが俺は生憎、今日は寮の行事があり志織とは逢うことができない。それどころか、俺にはやるべきことが目白押しだった。
俺は、この土曜日と翌日の日曜日に近所の地域センターで行われる夏祭りに、国立寮自治会として参加する綿菓子屋の出店の準備と、大量の綿菓子作りに追われていた。
これが結構、女子や子供たちに大人気なのだ。毎年、必ず長蛇の列ができ、おまけに閉店時間まで列が途切れることがない。一本五十円の綿菓子は、その安さも相まって飛ぶように売れていった。
俺たちほぼすべての寮生は、寮自でまとめて買った、でも暑さでぬるくなった缶ビールを飲みまくり、夏祭り会場のスピーカーから流れる炭坑節や東京音頭を聞きながら、順次交代しつつ綿菓子を作っていった。
綿菓子は、それを作る機械の中央の回転釜から、プロパンガスで熱されて細い糸状になって出てくるザラメを、割り箸を両手の指でくるくると回転させながら巻き付けて作るものなのだが、誰でも最初はうまく作れない。でも大概のやつはすぐにコツを掴み、ちゃんと売り物になる綿菓子を作れるようになる。
それでもできない不器用なやつは「最後尾」と書かれた看板を持って、お客が並ぶ列の一番後ろに立つことになる。看板係といえども実は大事な役割なのだ。彼らがいないとお客さんの列が乱れて収拾がつかなくなり、大変な事態になってしまうのである。
「佐山。そろそろ交代しようか?」
「あっ、松崎さん。あとお願いします」
「おう、ご苦労さん。佐山も他の屋台でなにか食べてこいよ」
「はい。でも、その前にビールが飲みたい。もう、のど乾いちゃって」
俺の綿菓子作りも三年目となれば、もう手慣れたものだった。次から次へとやって来るお客のために、白い綿菓子を作りまくった。
こんな素人が作った綿菓子でも、子供たちは本当に楽しそうに、美味しそうに食べてくれる。その笑顔が嬉しくてありがたいなと思いながら、俺はできるだけきれいな形の綿菓子を作ろうと、また割り箸を手に取るのであった。

地域センターの夏祭りが終わると、すぐに夏休み恒例の国立寮の花火大会が待っている。これがただ単に、花火を楽しむというだけのものではない。寮生が寮の建物側と庭側にわかれて、互いにロケット花火を打ち合うという少々物騒な、ともすれば危険なやつだ。おまけに時々相手陣地に侵入して、至近距離からロケット花火を打ち込むこともある。
だからそれなりの準備が必要になる。火傷や、服が焦げるのを防ぐための軍手や白衣、髪の毛が焦げるのを防ぐヘルメット、あとはゴーグルだ。大半のやつは、眼鏡や水中メガネで代用していたけど。
ロケット花火の騒音に対する、寮近隣への説明のビラ配りも行う必要がある。肝心のビラは、やっと昨日で印刷が終わった。ガリ版印刷では手間がかかり過ぎると、自治会費でコピー機を買おうという意見があるが、あまりにも値段が高くまだ決まっていない。
あと夏休みに寮生が帰省を始める前に行う寮生集会に向けた、執行委員会等の事前の会議。三日後に寮内で一斉に行う害虫駆除(バルサン炊き)の準備。さらに寮の屋上の補修問題に関する大学当局との折衝と、俺は忙殺されていた。だがそれも、当局との折衝以外、あともう少しで終わる。

志織の期末試験の前と試験期間、俺たちは逢うことを控えていた。俺はもう、一か月近く志織に逢っていない。電話も十日ほど前に少し話をしただけだ。
ああああああ、志織に逢いたい!
付き合い始めて、これほど強烈に、志織に逢いたいと思ったのは初めてだ。
それにしても好きな人に逢えないということが、こんなにも苦しいということを、俺は初めて知った。もう、志織なしの生活は考えられない。
寮生の中にも一人いるが、遠距離恋愛を続けているやつは本当に尊敬に値する。俺には恐らく耐えられない。

そんなある日の夜。相変わらず部屋の中で、タバコを吸いながら本を読んでいた時、廊下のスピーカーから寮内放送が聞こえてきた。
「三一三号室の松崎さん。お電話が入ってます。至急、受付まで」
来た! きっと志織からだ!
俺は慌ててタバコの火をもみ消し、一階の電話のところまで走った。赤と黄色、二台の電話のうち、赤い方の受話器が外されて台の上に置かれている。それを掴む。

「もしもし」
「ああ、お母さんばってん。元気しとんね?」
なんだ……。がっかり。
「うん、元気しとっ」
「夏休みは帰ってくんね? 帰ってくんない、飛行機代ば送っけん」
「うん、帰る」
そのまましばらく母親と話をし、父親とも久しぶりに言葉を交わした。父親は半年ほど前に腰を痛めていたので、少し心配していたのだが、もうすっかり治ったと言っていた。とりあえず両親とも元気そうで安心した。
せめてもの親孝行として、夏休みと正月に親元に帰ることは、俺にとってある意味当然のことだ。なにより俺には、母親に是非とも聞いてみたいこともある。
俺が電話を切って、受話器を置いて部屋へ戻ろうと後ろを向いた直後、俺の背中で電話器のベルが鳴った。俺はすぐに振り向き、受話器を取り上げた。
「はい。法文大学国立寮です」
「あの、私、長澤と言いますけど、松崎信也さんお願いします」
ずっと聞きたかった声が受話器から聞こえてきた。やったあ!

「うん、俺。信也」
「あっ、信也さん? 志織です」
「話すの久しぶりだね。元気?」
「うん。あの、ちょっと信也さんに相談したいことがあって」
「相談?」
「うん。受験のことで。近いうちに会えません?」
「いいよ。えっとね。今日が金曜日だから……、今度の月曜日は大丈夫?」
本当ならすぐにでも逢いたいところだが、残念ながら明日は世田谷の成城でバイトの予定が入っている。明後日の日曜日は正午から午後二時まで、俺が寮の受付当番。午後六時半時からは執行委員会で午後八時からは寮生集会だ。
俺が志織に一番早く逢えるとしても、月曜日まで待たなければならなかった。
「私、その日は午後三時半まで、学校で特別補習があるから、午後四時以降だったら」
「わかった。じゃあ余裕を見て午後四時半に」
「うん。四時半ね」
「じゃあ、場所はMoonでいい?」
「あっ、ちょっと別のところがいいかな」
「別のところ?」
「できれば学校から近いところ。石川町駅じゃあダメ?」
「いいよ」
「じゃあ、来週月曜日の四時半。石川町駅北口前で」
「ああ。わかった」
「遅れないでね」
「わかってるって」
「じゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」

やった。やっと逢える。今度の日曜の夜、寮生集会が終われば次の日、志織に逢える!
「おう、松崎。今、俺の部屋で宴会やってるけど、来る?」と、部屋に戻る途中、通りがかった西山さんが俺に声をかけてくれた。
「あ! うん。行きます!」

その晩、七人ほどが集まった西山さんの部屋での宴会は、先日の地域センターの夏祭りと例の花火大会の話題で大いに盛り上がった。
「いやー、これ見てよー。まだ痛くってさー」
北島がロケット花火を喰らった痣を見せようとお尻を出す。
「てめーのきたねえケツ、人に見せんな!」と皆で爆笑した。

《だがすでにこの時、俺と志織の間には大きな転換期が訪れていたのだった。
俺はそんなことなどつゆ知らず、仲間たちと夜遅くまで、ただひたすら気分よく酔っ払っていた》


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