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ヨコハマ・ラプソディ 20

二十.氷川丸 

すべては、はるか遠く過ぎ去った、懐かしい過去のこと。

俺は今、ほぼ三十年ぶりに、山下公園を訪れている。
一人で、もうかれこれ三時間近く、氷川丸が見えるベンチに座っている。
ここでまた志織と出逢ってからの日々のことを、雪山での出来事について、静かに追想に耽っていた。
山下公園から見る景色は三十年前と比べ、ずいぶんと変わった。
当時はまだ横浜ランドマークタワーも、大観覧車もなかった。建設中のベイブリッジは、まだ無骨な土木建造物に過ぎなかった。
山下公園に来る前に立ち寄った横浜市内のいくつかの場所も、昔とは大きく様変わりしていた。
志織とぶつかったビルの角は、のちに行われた再開発のため、今は当時の面影すらない。英文堂書店があったところは、今はコンビニエンスストアと進学塾になっているし、喫茶店「Moon」は居酒屋になっていた。「福景飯店」があった店には、有名な某コーヒーチェーン店の看板が掲げられていた。
もう、俺の思い出の横浜は、ほとんど本当の過去のものになってしまったようだ。
 
俺はすでに佐賀へ引っ越すことになっている。
地元で新しく始める事業のためだ。あとはできるだけ多く、母親の顔を見るために。
荷物はすでに実家へ送った。それほど大したものはなかったし、大部分は処分した。
部屋にあった大量の本は、本当に大事な二十数冊を残し、あとは古本屋へ売った。
その二十数冊の中には、『収容所群島』の第五巻、『動物農場』、『奇跡の生還へ導く人』、それと富樫岳で遭難し病院を退院したあと、改めて買った『アルジャーノンに花束を』も含まれている。この四冊は、どうしても捨てる気になれない。
本当は、最初に挙げた二冊は見ると辛くなるので、何度も捨てようかと思ったのだが、やはり捨て去ることはできなかった。
漫画で残したのは『めぞん一刻』だけ。それと志織から貰った二本のカセットテープ。もう再生する機械はとっくになかったけど、ずっと捨てずに取っておいた。
俺は、今日一旦東京へ戻り、役所への転出届など最後の用事を済ませてきた。明日には飛行機で羽田から福岡まで行き、そこから電車で佐賀へ帰る予定だ。
 
結局これまで、知らない街角で彼女とぶつかることなんてなかった。
当たり前だ。いつまでそんな夢みたいなことを。
やはり志織、君は、もう……。
いや、そんなことは絶対にない。今でも彼女は生きているはずだ。俺が信じなくてどうする。
 
やがて明るかった空の青が徐々に色彩を失くし、辺りはいつの間にか薄闇に包まれつつあった。やはり、お彼岸を過ぎた秋の日暮れは早い。
横浜港の夜景は見たかったが、周りにますますカップルが多くなって、いい加減、居づらくなってきた。
でもまあ、そろそろお腹もすいてきたし、最後に中華街へ中華料理を食べに行くとするか。
福景飯店はすでになかったが、志織が言っていたように、手ごろな値段でも美味しい店は他にもある。海老チャーハンはなくとも、エビチリは大概どの中華料理店にもあるはずだ。
ただ、マンゴープリンだけは、志織が食べさせてくれた福景飯店のもの以上に美味しい味には、これまで出会うことはなかった。
今夜は、横浜市内に予約してあるホテルに泊まる予定だ。
明日、ホテルをチェックアウトし、飛行機で羽田を発てば恐らくもう二度と、俺が横浜に来ることはないだろう。
俺はひとつ大きなため息をつくとベンチから立ち上がり、最後にもう一度だけ、目の前に浮かぶ黒と白の塗装をした氷川丸を眺めていた。
あの日、初めて志織と二人で訪れたこの山下公園で、一緒にベンチに座って、志織がその船のたどった歴史を教えてくれた氷川丸。戦中・戦後の数々の荒波を乗り越えた、優雅で堂々とした姿だけは相変わらずそこに在った。
俺は氷川丸の姿を、最後に自分の目にしっかりと焼き付けていた。
 
さよな……
 
俺はふと、自分のすぐ横に人の気配を感じ、なにげなく横を振り向いた。
するとそこにいたのは、紺色のスーツ姿に髪をポニーテールにした、きれいな女の人だった。俺は言葉が出なかった。
 
「長澤志織です。覚えていらっしゃいますか?」
ここまで走って来たのか、少し息を弾ませている女性が、にこやかに微笑んだ。その大きな瞳をした笑顔は、やはりとても可愛かった。
「忘れるはずなんて……ない。でも……どうして……ここが」
志織は、あの頃と変わらない、まるで少女のような優しい声でこう答えた。
 
「『声』が聞こえたんです。『今、山下公園に行けば、「いい人」がいるよ』って。私、ずっと信じていました。いつかまた必ず信也さん逢えるって。それに……」
「……それに?」
「私、夢の中でハッキリと信也さんに逢ったことがあるんです。その時の信也さん、なぜか吹雪の中で大変そうだったけど」
 
俺は涙で、なにも見えなくなった。




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