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0930文化庁前

一日半経ってもまだ文化庁前で感じた憤りが収まっていないので、口さがないけれどやはり書いておこう。ことの次第は下記のリンクから動画で確認できる。おれはもろもろを受けて最後に話をさせてもらっている。
吉開菜央さんのデモ後のツイートを見ると彼女は「四つ」の自主規制は広告界に残る理不尽な悪しき検閲かのようにいまだ受け止めてるようだ。それは「芸術」とは関係のない商業的な自己抑制の強い場の条件反射・慣習と思っているのかもしれない。だが本質的にそれは、商業/芸術と区切って考えるものではない。どのような場面でも同様に、人権問題の扱いは変わらない。芸術だけがそれを免れる特権を与えられているわけではない。
もちろん、その規制がいまどれだけ必要なのかは常に検証され更新されなければならない。だが改めて言いたいのは、それが「歴史的経緯」をもってつくられた規制だということ。規制する側は、差別糾弾の「圧力に屈した」のかもしれないけれど、被差別側から見ればそれは「勝ち取ったもの」だという視点を持たねばならない。
その上で、それがいま現在も必要な規制かを考えればよい。

「タブー視して話さないことこそ被差別者への理解を妨げている」のは、そういう一面もあるだろう。だからこそ、何が「歴史的な事実」なのかを学ばなければならないのだ。彼女が接した学芸員やその他の方は、果たして語れるだけの知識を持っていたのか。持っていたとしても及び腰にしか語れず「仄めかす」ようなことしか出来ないなら、それは結果的に差別の背中を押すことにしかならないのではないか。学んでいないことを指摘されてなお抗弁するなら、不遜と扱われることは致し方ないではないか。臆せず語ればよいが、その都度、更新していかなければならない。

あの場で一番問題とされたのは、彼女が、この「四つ」の規制と、「表現の不自由展」が受けた検閲を同一視していることだろう。前者はマイノリティが勝ち取った文脈から生まれたもので、後者は権力がそれに抗うことを抑圧したものだ。混同してはならない。なぜならまだ「部落差別」は終わっていないのだから。
https://twitter.com/naoyoshigai/status/1178666232599306240?s=20
彼女は「四つ」の規制を「もはや形骸化した、謎のリスクヘッジルール」としている。それを見ると、少なくともこの文章を書いている10/2の昼の時点では、彼女はまだその「歴史」を学ぶことの意味を理解してはおらず、自分に向けられた批判を理不尽としか思われていないようだ。自己へ向けられる抑圧へのナイーヴさを、せめて他の踏まれているものへの想像に接続できないのだろうか。それへの残念さと憤りが、この文章を書かせている。
https://twitter.com/naoyoshigai
https://youtu.be/q31Z2taCDS8?t=4891

余談だが、「四つ」は弊牛馬を扱ったから、獣は四つ指だからという解説では足りない。「四つ」の起源説はいくつかあるが、それらが言いたいことは本質的にはどれも部落が「人ではない」ことを意味している。獣の命を扱うような野蛮なことが出来る部落は「人間ではない別のなにか、人間よりも獣に近いなにか」という扱いをされた。そのことから、部落のことを「獣=四つ足で歩くもの」と揶揄するための「四つ」なのだ。「獣を扱う者」ではなく「獣そのもの」という表現が「四つ」なのだ。それは些細な差異ではない。「人」として扱われるか「獣」として扱われるかは、些細な差異ではない。それらを知った上で表現の持つそれぞれの差別性の強度を認識しなければならない。(四つの起源が江戸時代まで遡れることが実証されるなら、この節で書いた「部落」は「革多・穢多」と置き換えなければならない)

苛烈な糾弾が「部落解放」の妨げになっている、という意見がある。過去の個々の糾弾の中には度を超えたものも、それはあったに違いない。だがそれをもって全ての糾弾の評価が無効化されるものではない。それこそが蔑視なのだ。ひとりの粗暴をもって、それが属する属性全体を粗暴のように語ることこそが、差別の現場でしばしばみられる定型だ。そしてそれは、差別をはねのけようと動くものを挫かせることを意図している。一部の粗暴や利権に絡む詐欺行為は、個々に批判され是正されればよい。だがそれによって全体の運動は萎縮され得ない。

「表現の不自由展」で起こった出来事について、自分はスピーチで「表現の自由」の問題の前に「歴史修正主義・差別主義」がことの本質だと話した。これまで同じ指摘をしてきた野間易通(C.R.A.C.)がさきほど同様のことを再度ツイートしている。
「つまり、攻撃されたのがアートか否かはことの本質に一切関係がない。在日/慰安婦/韓国に少しでも関係している(とヘイターが勝手に思い込んだ)ものが、順番に攻撃・破壊されているにすぎない。そしてそれは、日本政府の歴史否認によってバックアップされている。最初の頃、一部のアーティストは「政治に巻き込まれた」と思わずナイーブな本音を語ってしまい失笑されたわけですが、こういう状況なので日本では「巻き込まれ」ないことはありえない。憎悪は強制的にあなたを「関係者」にする。」
ここ数年の間に起こっている「ウヨマゲドン事件」「弁護士への大量懲戒請求事件」「BTSへの脅迫」などの流れで、今回のことを捉えている。この認識を共有したい。
https://twitter.com/cracjp/status/1178615402047275010?s=20

ではアートは、どうするのか/なにができるのか。きっとアートに限らないすべてのひとが動いている「歴史修正主義・差別主義」へのプロテストに加わることは、当然として、それとは別になにかできるのか。
そもそも、みなが「無名のひとり」として路上に立つことができるのか。そこへ向けた懐疑が、自分に「一部のエリート」という言葉を選ばせている。英雄主義を捨て、吹き荒ぶ批評の荒野に、「ひとり」として、また「表現者」として立つことができるのか。そのことが「批評」にさらされている。そしてまたそれを語る「批評」自体も当然、「批評」の対象になっている。

「アート」に限らない話でもあるのだが、表現と差別については本当に向き合っていかねばならない。
例えば災害の被災地をたずねて気楽に写真を撮っていいのだろうか、と感じたことはないだろうか。例えば日本が過去に植民地支配していたアジアの国で、道ゆくご老人に気楽にカメラを向けていいのだろうか、と感じたことはないだろうか。例えばアジアのどこかの街を訪れて近代化途上のその街の風景を素朴なものと決めつけ、日本社会が失った古きよきものへの撞着をそこへ投影することの無責任な暴力性を、感じたことはないだろうか。
表現は、素材とされたものを搾取する構造と背中あわせだ。それを知りながら扱わなければならない。アートが社会的なテーマを選ぶときに、そこで起こる問題を啓蒙したいと思いながら、しばしば搾取をしてしまうことがある。意図などしていないのに。それらと、いつも向き合っていかねばならない。

他の方があの場のスピーチの中で「天皇制」について言及された。部落差別も朝鮮人差別も、天皇制が問題の核心にあると言っていいだろう。だが自分はそれへの言及はひとまず置いた。失礼な言い方だが、あの場ではまだハードルが高いように感じていたから。言及された方へ敬意を表したい。

0930の動画を見て改めて、自分が名乗らずに語っていることに気づいた。だが、それもいいだろう。無名のひとりとして路上にいる人間で構わない。

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