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LivesMatter #2

KoreanLivesMatterのタグの件。前のnoteからの続き。数日のうちに、さまざまな意見が出された。在日からの、自分たちの言葉を奪うなという意見もあった。当然と思う。自分が「止めるべき」と書いておきながらとても心苦しく思ってもいた。そして、たくさんのひとが独自のタグを提示し、やがて気づくとひとつに収斂していったようだ。それは、 #日本人のコリアン差別への沈黙は暴力だ で、これは先に出ていた #JapaneseSilenceIsViolence の訳語だったようだ。多くのひとが〜LivesMatterの代わりになるものを考えようとし、そのための集合知を積み重ねるようにそれぞれがてんでに作業をして、いつのまにか別のタグにつながったように見えた。そのことにこころを打たれる思いだった。タグなど、そもそも誰が言い出してもよい。資格など必要ないし、誰が言い出したか分からないような使い方がされるのが、正しいのだと思う。前のnoteで書いた「当事者から」ということと、ほんとに平気で矛盾するようなことを書くけど。
今回、このあたらしいタグにたどり着けたことは、BLMの波及する力の大きさのあらわれかもしれない。それが植民地主義の清算まで射程に入れた動きになったことは、本当にあたらしい動きに思える。そしてKLMではない別の言葉を獲得した。
この後また少しネガティヴなことを書くけれど、それでも、このあたらしさへの驚きは、本当に動かしようのない事実だ。

それでも、自分のなかにはどこか醒めて感じてるところがあって、どんな状況になってもマイノリティより先にマジョリティが自ら差別に反対することなど、起こりえないのでは、、と思ってもいる。なんで、そんな冷笑のようなことを、それもアンビバレントなことを言うのだろう、、と自分でも思う。だけど、部落の抵抗の歴史とはそんなものだったよね。それから、子供のころに父に部落の話を聞いていたなかにあったいくつかのエピソード、「弱い者を助けるのはいつも、別の弱い者だ」という刷り込みもあるのだろう。マイノリティを助けるのは、そのマイノリティ当事者でないのなら、別の被差別マイノリティなのだ。それは決して、マジョリティではなくて。
これは差別の話ではないけれど、それでも通底していると思うので書くけど、3.11の後に被災地の友人のところに何度も足を運びながら、このことを強烈に感じていた。少なくとも、物質的な助けを越えたところで、こころを助けることができるのは、東京から通う自分には無理だった。それを痛感していた。

差別に関わる問題を、自分が部落に引きつけて考えると、そうやっていつもどこかで醒めて感じる。マジョリティに期待などできない。その感覚を持ちながら、それでもこのタグはマジョリティとして言うしかない。 #日本人のコリアン差別への沈黙は暴力だ

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